午前11:00,駅前。


「ごめんなさい!」
「おはよう,さん。どうして謝っているんだい?まだ,約束の時間の15分も前じゃないか」


今日は幸村先輩との初めてのデートの日だ。


「あ,いや,お待たせしちゃったかな,って思って‥」
「大丈夫だよ,それにさんを待たせる方が嫌だからね。それじゃあ,行こうか」
「はい!」


幸村先輩が笑顔で差し出す手を取って,私は幸村先輩の隣を並んで歩いた。







さんはきっと覚えていないだろうが,俺はさんとの出会いを,よく覚えている。
初めて彼女を見たのは,去年の入学式の日の放課後。俺は,きょろきょろと目を動かし,テニスコートを困ったように覗く小さな女の子を見つけた。真新しいぱりっとした制服,あどけない顔立ちは,きっと1年生だろう。どうやらテニス部に用事があるようだったので,俺は近づいて話しかけてみることにした。


「やあ,どうしたのかな?」


彼女は俺の登場にびくっと驚いていたようだったが,きっと声をかけづらかったのだろう,気付いてくれた人がいたことにほっとしたようで,少し緊張したように声を上ずらせながら答えた。


「あ,あの,ここに,1年生の男の子,来ませんでしたか?」


彼女の雰囲気にすごく似合った,とてもかわいらしい声だった。1年生の男の子,自体はたくさん来ていた。去年全国優勝を果たしたおかげか今年は例年の何倍もの新入部員が来てくれていた。ただし彼女が指し示す1年生の男の子が誰かは分からなかった。


「1年生の男の子は,いっぱいいるよ。どんな子かな?」
「あ,すみません,えっと,こう,頭がちょっとふわっとした感じの,天然パーマの子なんですけど」


ああ。外れていなければ,もしかして,あの坊やのことかな。新入部員は素振りをして,あとの部員は各自のトレーニングに励んでいたはずなのに,何だかコートが騒がしかったので見に行ってみると,その騒ぎの張本人だった,あの男の子。


「ああ,もしかしたら,彼かな。さっきまで,試合をしていたんだけど」
「え‥試合?!もしかして,生意気なこと言ったりして,先輩方にご迷惑をおかけしませんでしたか?」


ここで,ああ,きっと間違いないなと確信を持った。それにしてもわざわざ訪ねに来るくらいだからそれは知り合いなんだろうけど,お互いをよく知っていることを感じさせるこの女の子とあの男の子の関係に,すごく興味を持った。


「ああ,なかなか,威勢のいい子だったね」
「あ,やっぱり!すみませんでした!」
「ふふ,どうして君が謝るんだい?」
「いや,その,彼,決して悪気とかはないんですけど,口がすごい悪くって。だからまた何かそんなことをしたんじゃないかって思って,私から謝っておこうって」
「大丈夫だよ,誰も気になんてしていないから」
「はあ,それならよかったです。ありがとうございます」


ふわり,と笑ったその笑顔の優しさに,俺は心が温かくなるような感じを覚えた。そして彼女のあの坊やについて話すその言葉に,二人の深い絆を感じた。


「あの男の子と,友達なの?それとも付き合ってるの?」


彼女は先ほどまでの温かい笑顔から一気に顔色を変えて,顔を真っ赤にさせて漫画のように両手を一生懸命振って,否定していた。


「ぜ,ぜんぜんそんなんじゃないですよ!ただの幼馴染です!」


その様子がとても可愛くて,俺は笑いをこらえることができなかった。


「そうなんだ。ただの幼馴染さんは,どうして彼を探しているのかな?」
「いや,自分が今日一緒に帰ろうって言ってきたのに,新入生テストで英語でひどい点を取っちゃって課題出されたみたいで,一緒に手伝ってたんですけど,私が先生に呼び出されている間にどっか行っちゃってて,いろいろ探しまわったんですけどどこにもいなくて。それで,もしかしてテニスコートかも!って思ったんです。彼,すごくテニスが強いんですよ!ここのテニス部にすごく憧れてて,それでこの中学に入ったんです!」


彼女の目はとてもキラキラと輝いていた。可愛い女の子だな,と微笑ましく思う反面,二人の間に俺には入りこめない何かを感じた。俺は今まで抱いたことのなかった感情が,自分の中で膨れ上がっていくのを感じた。


「そうか。彼なら,ちょうど君と入れ違いくらいでここを出て行ったよ。帰っていいよと言ったから,もう帰ったんじゃないのかな?」
「ええ!そうなんですか?ありがとうございます!部活中にすみませんでした!」
「いいや,大丈夫だよ。それじゃあ,気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます!失礼します!」


彼女は何度もぺこぺこと頭を下げて,たたたっと走っていった。さっきの坊やと違って礼儀正しい子だなと笑った後,俺は名前を聞けばよかった,と後悔した。俺はきっとこの時から,彼女に惚れていた。






少しして赤也が部活に入ることになり,あれから会うことはなかった彼女をよく見かけるようになった。彼女は毎日のように,部活が終わる頃,テニスコートの前であの愛らしい笑顔で赤也を待っていた。その様子はどう見ても彼氏と彼女にしか見えなくて,ブン太が毎日のようにからかっていたけれど,赤也は必ず「だーかーら,違いますって!ただの幼馴染ですって!あいつとは何でもないんですってば!」と全力で否定していた。その様子が,入学式の日のあの子と似ていることといえば他になく,俺はくすくすと笑って,心の中で,二人が付き合ってないという事実に小さく安心して,二人の仲睦まじい様子に小さくジェラシーを感じた。
部活が終わるまでいつも何をして待っているんだろう,と不思議に思っていたのだが,ある日委員会の用事で放課後校内に残っていると,図書室で真剣に勉強する彼女を見つけた。毎日こうしているのだろうか。彼女の真剣な瞳に,俺は思わず声をかけたくなる衝動を抑えた。俺はまだ,彼女の名前を聞いたことはなかった。




ー!」


それは,梅雨が明ける少し前のこと。普段気に留めることもない声がなぜかすごく気になって振り返ると,その声に振り返る彼女と,駆け寄っていく女生徒2人の姿が見えた。,という名前なのだろうか。俺はそこで彼女の名前を初めて知った。友達に向ける彼女の笑顔もやっぱりとてもまぶしかった。その日も彼女はやっぱり赤也を待っていた。


「いつも待ってくれているね,彼女」


赤也は俺がそんな話を振ってきたことに驚いたようだった。


「え?あ,ああ,そうっすね。もうあいつとは腐れ縁ってか,切っても切れないような関係っすからね」
「そうなんだ。とても仲がいいんだね」
「ええ!幸村部長までからかうんすかあ?!もうやめてくださいって!俺,いい加減疲れましたからあ!」
「俺,そんなつもりじゃないよ。ただうらやましいな,ってこと」
「それがからかってるって言うんっすよお!!」


俺は本当にからかっているつもりなんかなかった。ただ,心の底から純粋に,赤也が羨ましかった。俺がその赤也の立場と代われるなら,と強く思ったのだった。彼女の名字も知りたくなって赤也にさり気なく1年生の名簿を見せてもらったら,という名前を見つけた。そうか。彼女の名前は,というのか。さん。――きれいな名前だな。俺はまた一つ,彼女のことで知っていることが増えた。




俺はただ,気が付けばさんの姿を探していて,毎日のように赤也を待つさんを見ているだけだった。今,ここで,赤也と彼女のあいだに俺が入って行ったとすれば。さんに,好きだ,付き合ってくれ,と告げたとすれば。そう考えたことがなかったわけではない。
彼女はいつも笑っていた。特に赤也の前では,まぶしいばかりの笑顔を振りまいていた。今どきこんなに無邪気に笑う中学1年生がいるだろうか,と思う。彼女の笑顔は,見ると胸がドキドキして高鳴る,というより,心の底から温かいものがじんわりと広がっていくような,そんな笑顔だった。
けれどそれは俺に向けたものではない。それはよくわかっていたし,彼女と赤也の間には確かに俺には入り込めない絆が存在していた。


――きっと二人は,お互いに,幼馴染以上のものを感じている。


だから俺は,自分のこの感情を心の奥底にしまって,外側から鍵をしっかりとかけた。この先も赤也の隣にいて,彼女が幸せに笑っていられるなら,俺は彼女の幸せをただ願って傍から見つめていればいい。そう誓った。
さんには,たまに少しだけ話しかけるチャンスを見つけたら,話しかけて一言二言交わした。といっても,


「やあ」
「あ,幸村先輩,こんばんは!」
「赤也は特別メニューを言い渡しているから,あともう少しだけかかるかな」
「ありがとうございます!」


くらいの他愛もない会話だったけれど,普段赤也に向けられているまぶしい笑顔が俺に向けられていることにささやかな幸せを感じた。






彼女に言ったセリフに,俺は嘘はなかった。その後倒れて入院した俺は,気づけば目で追っていた彼女の笑顔が見られなくなったという事実に,思っていた以上の寂しさを感じた。日が経つにつれ,俺は彼女のあのまぶしい笑顔を強く求めていた。辛くて真田や部員にあたってしまいそうになったとき,俺は何度もはっと彼女のあの笑顔を思い出した。彼女の笑顔は俺の負の部分をすべて洗い流してくれた。早く退院して,彼女に会いたい。もし退院できたら,1番に彼女と話したい。今度は彼女が赤也とそうするように,もっと会話を楽しみたい。そして,心の底から,笑ってほしい――と。


けれど入院生活が少し経ったある日から,俺は赤也と彼女の間に異変を感じ取るようになった。だだだ,と病院内だというのに,誰かが不躾に走ってくる音が聞こえてくる。これはきっと赤也に違いない。


「部長ー!幸村部長!」


いつものように,赤也はにかっと歯を見せて笑って椅子にまたがった。赤也はいつも無意識なんだろうが,さんの話をする。彼女を見ることができない俺にとって,赤也から聞く彼女の話は入院生活の楽しみの一つとなっていた。赤也が楽しそうに話をするのを聞いていると,ありありとさんの笑顔が思い浮かんだ。けれど,赤也はその俺の期待を裏切った。


「幸村部長!俺,どうやらモテ期が到来したらしいんっすよ!」


ぴくりと動きそうになった眉毛を動かさずに,俺は「へえ」,とにこりと笑った。それはあの,さんとは正反対の,俺がたまにやってしまう笑顔だった。


「クラスの女子で,俺のこといいなって思ってるやつがいるらしいんっすよ!」
「へえ,よかったじゃないか」
「そうなんっすよ!小原百花っていうやつなんっすけど,結構可愛くって,俺もちょっといいなとか思ってて!」


さっきも,「赤也くんのテニスしてるとこ,すごくかっこいい!」って言われちゃって,と嬉しそうに鼻をこする赤也を,俺は笑顔を浮かべながら冷めた気持ちで見ていた。小原百花。俺はよく,とは言わないまでも,それなりにその子を知っていた。赤也は,こういうところは,良くも悪くもすごく子供だった。


「その子と,付き合いたいのかい?」
「いや,俺付き合うとか,付き合ったことないからよくわかんないっすけど,全然嫌じゃないっすね。むしろうれしいかも!」
「よかったね,赤也」


俺は笑顔を浮かべながら,たださんのことが心配で,彼女は今ちゃんと笑えているのだろうかと,気に病むばかりだった。


その日からさんの話題は少しずつ減っていって,とうとう赤也は一切さんについて話さなくなった。代わりに赤也はずっとその小原百花の話をした。
デートに誘われたんっす!俺デートとかまじで生まれて初めてなんっすけど!あいついきなり手つないできて!俺まじ緊張したっす!ブン太先輩たちには話しすぎてまじでウザがられたんっすよー。部長なら,聞いてくれますよね?!
そんな赤也の話を俺は右から左へと受け流しながら,頭の中で彼女を思い描くのだが,
俺の頭の中でのさんはとても悲しそうで,彼女の笑顔を思い出すことができなくなっていった。






そして冬が過ぎ,春が来て,新学期が始まってから少し経って,赤也と小原百花は交際し始めた。だだだ,といつもよりひときわ騒がしい音がする。この頃には可愛い後輩ながらも嫌気がさしていたのだけれど,それは間違いなく赤也だった。


「部長!部長!!幸村部長!!」


赤也はいつになく上機嫌だった。ああ,ついにこの日が来たのかもしれない。赤也の背後に愛らしい顔を悲しげに歪ませたさんがちらついて,俺は思わず目を反らしそうになった。


「さっき,小原に告白されたんっすよ!!なんていわれたと思います?!『赤也くん,付き合ってほしいの』って顔真っ赤にしながら言われて,もう超可愛くて!!」
「そうなんだ。よかったね,赤也。なんて答えたのかな?」


そんなこと,聞かなくても,一目瞭然だった。


「いや,なんとなくそんな気はしてたんっすけどさすがに俺もきょどったんで,お,おう!とかだっせー返事しかできなかったんすけど,でも付き合うことになりました!俺,初めての彼女で!めっちゃうれしいっす!!」


ああ。ついにこの時がきたか,と思った。赤也の気持ちがわからないことはない。中学2年生なんて,一番そういうことが気になるお年頃に違いないし,ただでさえ普段テニスばかりやっている中でそれなりに騒がれていたりもするだろうから,その中からそれなりに見た目がいい子に好きと言われたらテンションもあがるだろう。


けれど赤也のその幼稚さは,時にひどく残酷だ。赤也はまだ,自分の心の中が全く理解できていない。本当に小原百花が好きなのか。彼女と付き合いたいと思うのか。そばにいてほしいと思っているのか。もし,そうじゃなければ,赤也が本当に心の底から側にいてほしいと思うのは,誰なのか。そして,すぐそばに傷ついている人がいることを,赤也はまだ子供だから理解できない。


「‥赤也」


楽しそうに今日の小原百花とのことを話す赤也の言葉をさえぎって,俺は赤也の名前を呼んだ。


「どうしたんっすか,部長?」


首をかしげる赤也に向かって,俺は問う。赤也,これはラストチャンスだ。


「男なら,本当に大切なものを見失ってはいけないよ。赤也,君はその子を心から大切だと思うかい?」


俺の質問があまりに唐突すぎたのか,目をぱちくりさせて,へらへらと笑った。


「部長,どうしたんっすか,急に真面目に!俺そんな難しいことわかんないっすよ」


こっちの気も知らないでへらへら笑う赤也が本当にいらつくけど,彼女は赤也のこの笑顔が好きで好きでたまらないのだろうか。俺のただならぬ雰囲気をそれとなく察知したようで,赤也は考え込み始めた。


「えーっと,そうっすね‥なんか難しいことはわかんないっすけど,俺,小原と一緒にいたいっす!」


俺は赤也のあまりの幼稚さに,失望した。


「‥そうか。それなら俺は赤也を応援するよ。彼女のそばにしっかりいてあげるんだ」
「うぃっす!」






あの時俺は誓った。“もう赤也に彼女は任せない。さんは俺が守る。さんは,俺が笑顔にする”,と。
久しぶりに見たさんの笑顔があまりに弱弱しくて悲しくて,より一層その思いが強くなった。それと同時に,この時俺の心を小さな罪悪感が過った。もし,俺があのとき赤也にはぐらかさずにはっきりと話していれば,さんは今こんなに傷ついてないんじゃないか,と。
赤也に言うのは簡単だった。けれどこればかりは自分で考えて自分で行動しないと,俺にはどうすることもできないと考えていた。これについて微塵の瑕疵もないことは間違いない。けれど俺の場合,きっと,この考えの根底に俺自身の私情が入っていた。ほんの少し芽生えた罪悪感が,日が経つにつれ大きくなっていくことを感じた。


赤也への想いとの狭間で戸惑うさんの目をこちらに向けるよう,俺は必死で努力した。あんなにはっきりと思いを打ち明けたのも,生まれて初めてだった。抱きしめた体があまりに小さくて,俺は絶対に離さないと思った。俺は1番さんの寂しさを埋めることができた自信があった。そして自分自身を苛む罪悪感もだんだんと薄れていっていた。


だからあれほどに傷ついた彼女を見て,さんを笑顔にすることもここまで悲しませることも,赤也にしかできないことなのだと,絶望を感じた。彼女は完全に己を見失っていた。その彼女の様子からは,彼女の心の中には俺が存在していないことを,そして強く赤也が存在していることをありありと表しているようで,俺は胸がきりきりと痛んだ。赤也のせいで小さくなった彼女も,それを見てダメージを受ける俺も,どちらも見ていられなかった。薄れていた罪悪感が頭の中でだんだんと色濃くなっていった。


「頼むから‥そんな顔をしないでくれ」


それは彼女のためでもあり,俺自身のための言葉でもあった。俺がやさしく促すと,彼女はぽろぽろと涙を流した。彼女を抱きしめながら考えた。まだ今の俺は,彼女にとっての心の支えになれていない。その事実が悲しくて,加えていつか俺は彼女にとってなくてはならない存在になれるのだろうかと,それがあまりに見えない未来で俺は絶望を感じた。鍵をかけてまで閉じ込めたはずの感情が,扉をぶち破ってまで姿を現した。
――もう,一刻の猶予もない。


「付き合ってくれ」


彼女に言った言葉に,やっぱり嘘偽りはなかった。まだ彼女が赤也を忘れられないのだとしたら,もし,これからも赤也がさんに涙を流させるのなら,俺はその涙を受け止める存在でありたい。辛い時,さんが1番側にいてほしいと願う,そんな存在でありたい。何よりも最優先されるべきなのは,彼女の笑顔だ。保健室で静かに泣くさんを見たとき,俺はそう願った。
けれど,今の俺は,果たしてそうなのだろうか。赤也の二番手でも構わないと,心に誓って言えるのだろうか?
挙句の果てに,俺はさんと付き合えないという事実から逃げるために,予防線を張ってしまった。俺は,ただきれいごとを述べていただけなのだろうか?俺自身の欲望は完全に抑えきっていたつもりだった。けれど,それはただの“つもりだった”にすぎなかったのだろうか。俺は目の前が真っ暗になるのを感じた。


彼女に言われた言葉は本当に嬉しかったはずなのに,どうして心から喜べないのだろう。襲ってくる罪悪感から逃げるように,俺は彼女を抱きしめて,キスをした。彼女の唇はとても柔らかくて,俺のキスを拒まずに必死で答えようとしてくれる彼女がより一層愛しかった。何度も何度もキスをしていると,自分の欲望が抑えきれていないことに俺ははっと気が付いた。


要するに,俺はずっとずっと昔から,当事者本人たちがわからない赤也の気持ちに気が付いていたのだ。赤也がさんに手を出したことは決して許されることではないけれど,何となく赤也が手を出した理由も,赤也の気持ちもわからないわけでもなかった。
やっぱり俺は,彼女が最優先,なんて言いながら,やっぱり自分の気持ちが1番最優先だったのだろうか。このまま赤也とさんを応援することが,何よりさんが幸せなのではないか。こんな純粋な彼女を,汚い俺がだましているのではないか。こんな汚れた感情を持つ俺をさんには見せたくなくて,俺はさんに笑顔を見せた。その行為は俺が大好きだというさんの笑顔に背いているとしか思えなくて,また俺の心を抉った。






「可愛いね」と俺が微笑むと,さんは目を大きく見開いて顔を真っ赤にした。


「え,え,え!!な,何のことですか?」
さんのこと。その服,すごく似合ってるよ」


「可愛い」はもう何度も言ったはずなのにまだ慣れないみたいで,彼女は慌てながら,こう言った。


「いや,幸村先輩の方が絶対かっこいいですよ!私服もおしゃれで,すごくかっこいいです!!」
「そんなことないよ。でも,ありがとう」


もちろん,好きな女の子にかっこいいと言われてうれしくないわけではない。けれど,さんの俺に対する“かっこいい”と,赤也に対する“かっこいい”は,きっと全く違うものだ。
赤也はまだ子供だから,俺に対する“かっこいい”をとてもうらやましがるに違いない。けれど赤也はまだその“かっこいい”がどれほどありがたいことなのかを理解できない。


さんが好きだ。さんの笑顔を何よりも大切にしたい。この気持ちは心の底から誓える。けれどもし,俺に対する彼女の気持ちが赤也への気持ちを超えられなかったら?赤也を選んだら?俺は今までのように笑顔で立っていられるのだろうか。


そんな未来があまりに恐ろしくて,俺はさんの手を握った。さんははにかみながら嬉しそうな笑顔を俺に向けてくる。俺は微笑み返した。
その笑顔が心からの笑顔であると,俺には思えなかった。







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