「触んじゃねえ!!」


それは一瞬だった。時が止まったように感じた。私の体が重心を失い,ゆっくりと地面に倒れていっていた。けれど私は結局最後まで,何が起こったのか理解できなかった。





ふと,体全体が包まれたような感触がして,私は我に返った。それまで私は意識がどこか遠くに飛んでいたらしく,あたりを見渡すとここは人けのない校舎裏で,私は幸村先輩に抱きしめられていた。以前のように優しくではなく,力強く抱きしめられていた。


「頼むから‥そんな悲しい顔をしないでくれ」


優しくて,悲しい,切ない声だった。幸村先輩がどんな顔をしているか,この体制ではわからなかったけれど,悲しそうに微笑む幸村先輩の顔が思い浮かんだ。こんなに優しい幸村先輩に悲しい思いをさせたことが申し訳なかった。今はただ,幸村先輩の鼓動を感じた。私は少し落ち着いたようだった。落ち着いてくると,先ほどの出来事が頭に思い浮かんできた。


記憶は,あんまり,ない。けれど,久々に会った赤也はすごく怒っていて,私はたぶん赤也に突き飛ばされた。赤也はいつどんなときでも,優しかった。その赤也に,私は強く拒絶されたような気持ちになった。


「保健室でのこと,覚えてる?俺,前に言ったように,さんに,辛い時は涙を流してほしいんだ。さんの涙は,俺が全部受け止めるから」


その言葉を皮切りにして,私の涙がぽろっとこぼれた。どうやら私は涙を流さない割に流すと止まらなくなるらしく,涙がぽろぽろだったのがぼろぼろこぼれだして,幸村先輩に抱きしめられたままだったので,このままじゃ幸村先輩の制服を汚しちゃう!と思って離れようとしたら,離さないと言わんばかりに,幸村先輩は私を強く抱きしめなおした。
もう涙は止まらなくなっていたので,どうしようもなくなって,感情に素直に従って,私は泣いた。幸村先輩はずっと,私の背中を撫でてくれていた。


「落ち着いたかい?」


私が泣き止んだ頃,幸村先輩は私の体をゆっくりと離しながら言った。もうその声も微笑みも,いつもの幸村先輩だった。


「ご,ごめんなさい!私‥」
「謝ったらだめだと,言っただろう。それに,謝りたいのは,俺の方だ。君を守るなんて言っておきながら,君があんなに傷つくまで,側にいてあげられなかった」


「そんなことないです!私が‥」,答えようとした私に,幸村先輩は間髪入れずに私の名前を呼んだ。


さん」


幸村先輩は,私の話を最後まで聞いてから自分の意見を言う人だったので,さえぎられたことに驚き,「は,はい!」なんて,少しどもってしまった。名前を呼ばれたけれど,そのあとの言葉が続くことはなく,加えて幸村先輩は何か考え事をしているようで,こちらを見ようともしていなかった。何と声をかけたらいいかわからなくて,しばしの沈黙が続いた。私は幸村先輩の言葉を待った。


「‥俺は」


幸村先輩は,ようやく口を開いてくれたけれど,聞いたことのないような低い声だった。


「俺は,返事はすぐには聞かない,と言った。本当にそう思っていたんだ。――あんな君を,見るまでは」


幸村先輩は,とても悲しくて,とても真剣な瞳で,視線で,まっすぐ私を射抜いた。その熱のこもった,温かくもあり燃えるような炎を感じさせる視線に,私は動けなくなった。


「今回は,すぐに答えをほしい。そして,いいえと言わせるつもりは,俺にはないよ。 俺と付き合ってくれ。――そしたらもう,絶対に,君にこんな思いをさせたりはしない」


幸村先輩の言葉に,胸を打たれた。それはあまりに甘い響きだった。幸村先輩は,きっとこういう人なのだ。嫋やかな微笑みを浮かべ,人当たりがよく,とても優しい。けれど芯が強く,とても力強い(でないと,立海テニス部の部員達を引っ張っていけないんだろうが)。こんなに素敵な人に,幸村先輩にとってのたった一人の女の子に選ばれた私は,なんて幸せ者なのだろうか。


「あ,あの,私‥」
「好きだ,さん。赤也を応援しにコートに来ていた君を初めて見たときから,俺はずっと君が好きだった。これからはずっと,俺が君を守る。君の笑顔を守る。だから,」


「俺の彼女になってくれ」


幸せすぎるくらいのはずなのに,なぜすぐに,“はい”という答えが浮かんでこないのだろう。


「わ,わたしっ‥付き合うとか,そういうの,わかんなくて‥」


今まで赤也以外の男子とはろくに話したことさえない私に,誰かと付き合う,ということがあまりに非現実的すぎた。幸村先輩は,「ああ」,と,くすりと笑った。


さんはとても純真なきれいな心を持っているからね。なんとなく,わかるよ。俺は,もしさんが俺の彼女になってくれたとしたら,それ以上をさんが望むまでは今までの関係と特に変わらないと思うよ。一緒に帰ったり,一緒にお昼ご飯を食べたり,一緒に勉強したり,ああ,まだしたことはないけど俺の部活がオフの日なんかに,デートに行ってみたりは,したいかな」


幸村先輩は,とても幸せな未来といったふうに私のことを話してくれた。私の頭の中にも,幸せそうに街並みを歩く私と幸村先輩が思い描かれた。


「それにね‥やっぱりさんは,ため込んでしまう癖があるみたいだね。さっきみたいなときは,俺としては,俺の前だけで,涙を見せてほしいなって思うよ」


こんなにも,まっすぐ,私のことを思ってくれる人なんて,これから生きていくうえで一生出会えるだろうか。いや,出会えないだろう。しかもこんなに優しくてかっこいい幸村先輩のような人からなんて。もちろん,見た目とか,そういうことではない。本当に,幸村先輩は,すごい人だ。私は,幸村先輩が,好き?私の心に聞いてみる。


幸村先輩を初めて見たとき,こんなにきれいな顔をした男の人がいるのか,と素直に驚いた記憶がある。しかも赤也に言わせると,この名門テニス部部長(!)で,化け物のようにテニスが強くて,ものすごく怖くて厳しいらしい。信じられない,あんなにきれいで優しそうな見た目の人が!と思った。けれど赤也とあんなふうになって,見ていただけではなくなった幸村先輩はやっぱり,優しい人だった。それも,バレンタインに全員にお返しするとか,そういうことだけではなくて,本当の優しさというものを知った,けれどしっかりとした意思を持った芯の強い人だった。
私は,幸村先輩が,――。


「幸村先輩」


幸村先輩は,覚悟を決めたようだった。幸村先輩のまっすぐな思いに,私もまっすぐ応えようと思った。


「私,何でこんな私を幸村先輩がそんなに好きって言ってくれるのかわからないし,付き合うとか,彼女になるとか,恋愛感情とかは,ぜんぜんわからないけど,けど,私,幸村先輩の気持ちがすごいうれしくって,幸村先輩をすごく尊敬していて,そして,幸村先輩の優しいところが,私,‥私,すごく好きって,思います。幸村先輩の気持ちに答えたいって,心から思います」


幸村先輩は,「ありがとう」と言った。


「ずっと,君だけを見ていた。けれど君には赤也がいて,君の,そして大切な後輩の赤也の幸せを壊すことだけはできなくて,俺はただ,ずっと,見ているだけだった」


「本当に,うれしい」,幸村先輩は私を抱きしめた。


さん」


抱きしめられたまま,幸村先輩に名前を呼ばれた。


「は,はい」


幸村先輩の体がゆっくり離れていく。そう思っていたら,今度は顔が近づいて来て,私はとても慌てた。幸村先輩が,目を閉じた。え,え,これって,え,え‥?!
私は目を閉じる暇も余裕なんてものもなく,幸村先輩の唇が私の唇に軽く触れた。え,と戸惑っている暇もなく,もう一度,幸村先輩に唇が触れて,今度は少しついばむような感じで口づけられた。
緊張と恥ずかしさで頭がいっぱいいっぱいになった私に,幸村先輩は追い打ちをかけるように,もう一度私に口づけた。今度は,何度も何度もついばむようにして,幸村先輩はたぶん,私の唇を味わっていた。やっと私は目を閉じた。
顔は真っ赤で,死にたいくらい恥ずかしかったのに,不思議と嫌な気分はしなくて,むしろ,心は満たされていた。


長い長いキスが(といっても経験がないからよくわからないけれど),ぴたっと,いきなり,止まった。そして唇と顔が,少しだけ離れた。不思議に思った私は幸村先輩を見つめた。すると幸村先輩は私の視線に気づいたのかはっとして,微笑んで,私の体をゆっくり離した。


「さっき,何も変わらないよって言ったばかりなのに,ごめんね。嫌じゃなかった?」
「い,いえ,嫌,だなんて,ぜんぜん!大丈夫です!」
「そっか。それならよかったよ。うれしすぎて,つい,ね。本当はもっとしていたいんだけど,これ以上したら,俺,」


幸村先輩は困ったように微笑みながら,「おかしくなってしまいそうだったから」,と私の頭を撫でた。


「え‥ええええ?!」


お,おかしくなってしまいそう‥?!どういうことなんだろう?!私も,おかしくなってしまいそうだったけれど。幸村先輩も,やっぱり恥ずかしいとか思ったり緊張したりするんだろうか。なんとなくいつも余裕たっぷりな感じの幸村先輩のそんなところを想像することはできなかったけれど,「ふふ,何でもないよ。さあ,そろそろ帰ろうか」といった幸村先輩の言葉で,私は立ち上がった。


「今日も家まで送って行くね。さあ,教室まで送って行くから,帰る準備,しておいで」
「え‥!」


驚いて時間を確認すると,6時を指していた。


「もうこんな時間なんですか?!幸村先輩,部活は?!」
「ああ,部活は問題ないよ。一応俺がミーティングする予定ではあったんだけど,しばらく外していた俺より真田の方が現在の部のことをよく分かってるだろうから。真田ならきっと,俺に何かあったのだろうと思って始めてくれるだろうしね」
「部活サボらせちゃって,本当にすみません‥!本当に‥!」


私の私的な事情で幸村先輩とテニス部のみなさんに多大な迷惑をかけてしまったと思い,ぺこぺこと平謝りをしていると,「さんは本当に面白い子だね」と幸村先輩はくすくすと笑った。


さんが謝ることは何もないよ。確かに俺にとってのテニスはとても大切なものだけど,それ以上にさんの方が,俺にとっては何事にも代えがたいものだからね」


「俺はさんがいなきゃ,二度とテニスができなかったかもしれないんだから」と続けた幸村先輩の言葉は,すごく恥ずかしくてくすぐったくて,けれどとてもうれしいものだった。


「あ,あの,今から行っても,間に合いませんか?」
「こんな状態の君をどこかに置いて行くなんて,今の俺にはできないよ。それに,もうさすがにミーティングは終わっているんじゃないかな。さんは何にも心配しなくていいから,一緒に帰ろう」


幸村先輩は,本当に優しい。こんな素敵な先輩に好きと思ってもらえて,私はこの上ないほどの幸せ者だ。今はまだ,幸村先輩への気持ちが恋愛感情かどうかはわからない。けど,そうじゃなかったとしても,幸村先輩を恋愛感情として好きになろうと思った。幸村先輩なら,好きになれると思った。
私が帰り支度をしている間に,幸村先輩は自分の支度を手早く済ませて,教室に来てくれた。そして一緒に帰った。校門を少し離れたところから,私たちは手をつないだ。このあいだの公園からとは違って,今度はしっかりと手をつないで歩いた。


幸村先輩。幸村先輩のことを考えると,この手のぬくもりや,抱きしめられた力強さ,重なった唇のことを思い出して,胸がどきどき高鳴るんです。この気持ちは,きっと――。
“好き”だと言えるのではないかと思うんです。








back top next