あの日から私と幸村先輩は,特に進展があったわけではないけれど,それでもあの日よりは少しずつ,距離が縮まっていった。変わらず毎日一緒に帰っていたし,一緒にお昼ご飯を食べたり,幸村先輩と図書館で勉強したりなんかもするようになっていた。少しずつ少しずつ,一緒に過ごす時間が増えていた。私は,間違いなく,幸せを感じていた。






ずっと,自分のことしか見ていなかった。というか,きっと俺は,自分のことさえも見えていなかった。自分の気持ちさえも。何にも,全く。それまで俺が過ごしてきた日々の代償であったかのように,見たくもない光景をしっかりとこの目で見てしまった。


(――‥‥!)


何だよあれ,と眉をひそめ,そして何で自分がそんな感情を抱いたのかが全くわからなかった。


「?赤也?どうしたの?」


俺が大好きなはずの可愛い彼女が,不思議そうに俺に問いかけた。けど自分自身でも意味も分かっていないこの感情を,他人に説明できるはずもなく,俺は「何でもねえよ」というしかなかった。


「‥‥‥ふーん」


不服そうな百花にばつが悪くなり,ちょっとトイレ行ってくるわ,とその場に置き去りにした。自分自身の頭を整理させようと思った。何で,幼馴染の,に――そして,尊敬している幸村部長に,こんなに,いらついているのだろう。そして俺はこう思ったのだ,そうだ,特に俺以外に接点がないあの二人が一緒にいたことが不思議で,少し訝しく思っただけに違いないと。
勝手に疑問を抱き勝手に納得した俺は,一応行きたくもなかったトイレに行って,百花と昼飯を食べようと教室に戻ったのだ。今日も学食にでも行くとするかな。昼飯をいつものように百花と楽しくとりながら,時にクラスメイトに茶化されたりしてそれをまんざらでもないな,なんて笑い飛ばしながら,憂鬱な授業を迎えた。そして俺は,次の休み時間にさらなる疑問を抱くことになる。


「おい赤也,お前知ってんだろ?」


クラスの仲のいいやつら数人と話していると,急にそのうちの一人が新しい話題に入ろうとして,なぜか俺に振ってきた。知ってんだろ,なんて言われても,俺は何のことだかわかるわけがない。いかにももったいぶっているそいつに少しいらつきながら,俺は一応その話題に付き合ってやることにした。


「知ってんだろ?って,何のことだよ」
「ほら,A組の,お前と仲いい子いるじゃん」


A組の仲いい子,と聞いて,たぶんのことなんだろうとは思ったけれど,はめったに噂をたてられるような女ではない。俺はいまいちそいつの言っている人間とが当てはまらなかった。


「A組って‥のことか?」
「そうそう!ってかお前知らねーのかよ!情報遅すぎんだろ!」


友人たちは「まあお前小原とべったりだもんな,わかんねーよな」とげらげら笑い合っていた。その様子から察するに,そのの噂は周知の事実のようだった。何だろうと気にはなったが,俺は何だか聞かない方がいいことのような気がして,友人たちになんと声をかけようか悩んでいたところ,その中で知らないやつがいたらしく,そいつに先を越された。


「何だよ?がどうかしたのかよ?」
「ったく,お前も知らねーのかよ!さあ‥」


そいつらの笑顔から,俺は悪い予感しかしなかった。いつのまにか俺の心の中で天秤が出来上がっていた。それを聞くか,聞かない方がいいからその場を離れるかで,ぐらぐらと揺れていた。この時,その場を離れるという選択をしていたら,俺の今後もまた少し違ってきていたのだろうか。とにかく俺は,聞くという選択をしてしまった。そしてこれは間違いだった。


「彼氏,できたらしいぞ!」


一瞬,時が止まったように感じた。そして,どくんどくんどくんどくんと,一気に血流が活発になったかのように感じた。頭に血が上ってきて,楽しそうに話す目の前の人間を何だか殴り倒したくなった。意味が分からない。何でこんな感情になるのか,意味が分からなかった。俺はぐっとこぶしを握った。めんどくさくて最近伸ばしっぱなしにしていた爪がぎりぎりと掌に食い込んだ。


「え!まじかよ!俺,結構のこといいと思ってたんだぜ?」
「それ,この学年中の男子みんな言ってんぞ」


ふと,意味も分からず怒りを抑えきれなくなっていた俺の感情がぴたりと止まった。


「は?どういうことだよ,それ」
「何だよ,お前気づいてなかったのかよ!,結構モテんだぞ。けどどう考えてもお前と付き合ってるようにしか見えなかったから,みんなは切原のもんだもんなって泣く泣く諦めてたんだよ」
「そうだぞ,お前!俺,お前と小原が付き合いだしたから,にやっといける!なんて意気込んでたのによ‥」
「おい隆,元気出せって!」


再びげらげらと下品に笑うそいつらと,俺は同じ輪の中にはいられなかった。


「しかもさ,その彼氏って,誰だと思う?」
「立海のやつなのかよ?」
「当たりめーだろ!じゃねえとこんなに話題になんねーよ!しかもまじで超有名人!まじすげえ!」


先ほどの悪寒がせりあがってきて,そして,少ないであろう脳みその奥底で掠めた嫌な予感が,間違いなく当たっていそうな気がして打ち消した。けれどそれは全く意味をなさない行為だった。


「赤也はよく知ってる人間だぜ!」


さっきの光景が何度も頭をちらついた。ありえない。そんなはずは,ない。だって,あの二人に付き合い出すような接点なんて,どこにある?大体,に彼氏なんて,そんなことがあるわけがない。いつも俺の後ろをちょこちょこついてきていた。一緒にばかやって,騒いで,ああ,いじめられてるを助けたことなんかも,あったっけ。のことなら,誰よりも知っている自信がある。そのが,


「あ!てことはテニス部のやつだろ!」
「正解!しかもその中でも超大物だぜ!なんと,」


そのが,


「部長の幸村先輩だってよ!!」


俺にも見せたことのない表情を,幸村部長の前で見せるのだろうか。


「え,まじで?!幸村先輩?!もうそれぜってー勝ち目ねーじゃん!!」
「何だよお前まだアタックするつもりだったのかよ!ぜってー無理だよ!」
「お前隆あんまいじめんなって!隆入学した時からずっと結構好きなんだぜ?」
「そうだよ!大体お前人のこと言えねーだろ!お前も入学したばっかのとき,見て,あの子まじ可愛いぜってー告白する!とか騒いでたじゃねーかよ」
「ちょ,宏!赤也の前でそれ言うなっつっただろ!」
「悪い悪い,だから隆あんまいじめてやんなって」


聞くに堪えない会話から,俺は自然に離れたつもりだったのだけれど,呼び止められた。


「おい赤也,どうしたんだよ?」
「‥あー,昨日徹夜で格ゲーやって寝てねえんだわ。俺ちょっと保健室行ってくる。次の先公に適当に言っといてくんねえ?」


そいつらはやっぱり,「ばっかじゃねえの!」なんてげらげら笑って,わかったと俺を送り出した。俺の心の中は言い表せれないような複雑な感情だったのだけれど,きっと,一番近いのは,“茫然”だった。どのようにして保健室まで辿り着いたのかもわからないくらい,俺は少し頭がおかしくなっていた。保健室には運よく誰もいなかったので,俺はベッド借りまーす,と誰もいない机に向かって,形式上了解を取り,ふて寝を決め込むことにした。


自分がなぜ,こんな気持ちを抱いているのか,全く理解ができなかった。は,昔から,そしてこれからも,ずっと一番大切な友達のはずだ。対して,幸村部長は俺の尊敬する先輩で,ちょっと(どころではないが,正直)怖いけれど,幸村先輩が彼氏で,何の問題がある?ここは心から祝福すべきところじゃないのか?俺はきっと,周りだけでなく,自分の心でさえも,見えなくなっていたのだ。






その証拠に,大して眠れずに6時間目を過ごした後,真っ先にの教室にを訪ねてきた。





あまりに久しぶりのような気がして昔のようにを呼ぶのには随分気が引けたけれど,少し緊張しながらドアからを呼んだら,は大きな目を大きく見開いてこちらへと走ってきた。


「赤也‥?どうしたの?」


昔だったら,もっと嬉しそうに俺のところへ来ていたんじゃないか,と俺は眉をひそめたが,俺が放置していたんだから驚いてもしょうがない,俺はそう思うことにした。


「あ,えーとな‥なんか,久しぶりだな」


俺自身が何でこんなところに来たのか全く理解できていなかったため, の問いに非常に困った。は困ったような顔で,「うん,そうだね。久しぶりだね」と優しく言った。


「あ,あのさ。今日,久しぶりに,ゲーセンにでも寄っていかね?新しい格ゲー入ったんだよ。と一緒にやりたくってさ!」


俺は,うん,行く行く!なんて答えが返ってきて,またたまにはこうやって一緒に帰って,今までのような関係に戻れると,きっと疑っていなかったのだろう。それほどまでに,俺は,浅はかで,幼稚な子供だったのだ。に俺が与えた傷なんて,俺は全く分かっていなかった。


「え‥!赤也,急にどうしたの?部活は?」


の「え‥!」という言葉と同時に,俺も「は」と言葉を発していた。どうして“Yes”という言葉が返ってこなかったのだろうと。どうして部活の心配なんて,がしているのだろうと。考えてみれば,俺は他のことはともかく部活には真面目に出ていたし,はそんな俺をいつも応援してくれていたからそれは当然の答えだったのだろうけれど,俺にはどうしてもの背後に俺から見ても恐ろしいほどに美しい部長の微笑みがちらついてしょうがなかった。


「‥部活は,今日ミーティングだから,そんなに時間かかんねえんだよ。だから,ちょっと待っててくんねえ?」
「えーっと‥」


は困ったように四方に視線をさまよわせていた。らしくない,と思った。俺たちの間には,隠し事なんてなかったはずだった。今まで,言いたいことは何でもはっきり言っていたように思っていたのに。こんなに,慌てるようなやつではなかったのに(慌てる内容もでもないように思える)。


「ごめんね。今日,ほかの人と帰る約束してるんだ。また,今度でもいいかな?」


ああ,それで,全ての合点がいったような気がした。なるほどね,他の人と帰る約束してるから,俺に帰ろうなんて言われたら,要するに迷惑ってことね。そりゃそうだ。今まで頭の片隅に行っていた『の彼氏』のうわさが急に現実味を帯びてきた。俺は目の前が真っ赤に染まっていくのを感じた。


「‥誰なんだよ」
「え?」
「誰なんだよ,一緒に帰るやつって!!」


仲良しな幼馴染,と公認だった俺たちのただならぬ雰囲気に,ちらちらと,クラス中や廊下を歩いているやつらの視線が集まりだした。は俺の行動におろおろとしていた。何で俺が怒っているのかがわからないといったふうだった。それは俺にもわからなかった。


「え‥ってか赤也,どうしたの?大丈夫?」


きっと俺の目が真っ赤になっているのだろう,と感じた。俺の赤目にびびらないのは,今まで出会った中で,たった一人,だけだった。けれど今俺の目の前に立つは俺の変わりようの早すぎる感情についていけずに怯えているようだった。そうだろうと,思った。幸村部長はきっと,俺と違ってお優しいことだろうよ。


「わーったよ,邪魔して悪かったな!」


何でこんなにいらついているのかも自分ではわからないくらい無性に腹が立ったため,自分の教室に帰ろうとしたそのとき,ぐっと腕をつかまれた。振り向くと,だった。


「赤也,どうしたの?何で怒ってるの?私,なんかした?」


それは一瞬だった。「触んじゃねえ!!」,俺が叫んで,を突き飛ばした。完全に頭に血が上っていたのだ。自分でも,理解できなかったのだ。何でこんなに怒っているのかが。俺自身が分からないことをがわかるわけがないのに,俺の気持ちを理解してくれないが頭にきた。


突き飛ばしてすぐに,俺は後悔した。こんなことをしに,に会いに来たわけじゃなかった。一緒にゲーセン行こうと思っただけで。喧嘩したかったわけでも,文句言いに来たわけでもない,ましてや手を出すつもりなんて――。


地面へと倒れていくは,信じられないといった顔をしていた。急いで我に返り,差し出そうとした手はに届くことはなかった。ついでに,の体が地面に倒れることもなかった。


――幸村部長がを抱き留めていた。


呆然としていたは,はっと自分が誰かに抱き留められていることに気づき,それが幸村部長であることに気づくと,もう一度信じられないというような顔をしていた。幸村部長は,にっこりとあの女子の大好物の笑顔をに向けて,今度はまっすぐと俺に怒りをぶつけてきた。


「何をしてるんだい,赤也?」


普段全く怒りをあらわにしない幸村部長にしては珍しいくらい,怒っていた(といっても,俺のように激しく怒っているわけではなかったが)。静かに怒り,その瞳はまっすぐと俺をとらえていた。


「女の子に手をあげるなんて,俺は赤也を買いかぶりすぎていたようだね」
「‥‥‥!」
「グラウンド100周!頭を冷やしてくるんだ!」


そしてまたに優しい笑顔を向けて,「立てるかい?場所を移そうか」なんて優しく介抱し,どこかへと伴っていった。


「‥っ,っくっそ!」


いらいらが爆発して,悪い癖が発動しついその辺にあるものを蹴ってしまい,たまたまそこにあっただけのロッカーは,俺の足の形に凹んでしまった。俺たちの様子を覗っていた野次馬を睨み付けて,俺はとりあえずその場から離れることにした。


何でこんなにも腹が立つのか。このときはまだ,わからなかった。俺と百花が付き合い始めたこと以外にも,この数か月間で様々な変化が起こっていた。俺は何にも気づいていなかった。








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