「幸村部長,お疲れさまっす!」
「ああ,赤也,今日もよく頑張ったね。お疲れ様」
「じゃあお先っす!よっし,帰ろうぜ!賭けしてえなあ。あ,今日の晩飯が何かがいいな!今日の晩飯で賭けするぞ,賭け!」
「やだー!絶対赤也が勝つもん,私勝ったことないし」
「なんだよ,つまんねーな。じゃあ,どっちが先につくか,下駄箱まで勝負な!負けた方は,アイスおごり!」
「やだ,どっちにしろ私絶対負けるもん!っていうか待てー!」


ずっと,見ていた。
君だけを。







あの日から,次の日,そしてその次の日も,そして――と,幸村先輩と下校する日が続いた。1週間くらいして,いつものように一緒に帰っていると,幸村先輩に,「俺,だいぶ調子も戻ってきたから,そろそろ部活に戻らなくちゃならないんだよね」,と,少し残念そうな笑顔で言われた。私はきっと明日からは一緒に帰ることができないから一人で帰ってね,という意味だと思ったので,少しさみしく思いながら,「頑張ってください!応援してます!」と笑顔で答えた。


そして迎えた次の日の昼休み。お弁当を食べ終えトイレに行って教室に帰ってくると,教室中――どころか,2年の多くの生徒が廊下に出てきてざわついていたので不思議に思いながら教室に入ると,同じクラスのみんなが一斉に私に振り返った。え,何?と思う前に,もう1つの扉の1番近くにいた子が私を見るなり声を上げた。


さん,呼ばれてるよ!」


扉の向こうに人影が見えるので,誰かが私を呼んでいたからみんな私を見てたんだ,と思った。特に気にせずそちらへ向かうと,2,3歩進んだところでびっくりして目をぱちくりさせてしまった。


「やあ」


すっと手を挙げ,そしてその端正な顔に嫋やかな笑顔が浮かべられると,うちのクラス,それどころか2年全体から黄色い歓声があがった。男子はとてもうるさそうだ。私はあわてて,駆けていった。


「ゆ,幸村先輩!!どうしたんですか?」
「ちょっと,さんに話があって。迷惑だったかな?」
「い,いえ,迷惑だなんてとんでもないですよ,そんなわけないです!けど,幸村先輩にわざわざ来させちゃうのが悪くて」
「ふふ,さんはやっぱり優しい子だね」
「いえ,全然優しくなんかないです!」
「ふふ。すぐに済む用事だから別にメールでも構わなかったんだけど,俺が,」


さんに,会いたかったんだ」


あまりの驚きに漫画でよく見るあの口をぽかんとさせた顔に思わずなりそうだったところを,幸村先輩の前で!と思い直した。驚いたけど,幸村先輩のこれは時々あるのだが,おそらく社交辞令というか挨拶のようなもので,特に意味はないようなのでスルーすることにした。正気に戻ると,周りの女の子からの痛い視線と強烈な居心地の悪さを感じた。


「嫌だったかな?」
「いえいえ,すごくうれしいです!!」
「よかった。今日の放課後のことなんだけど,もし特に用事がなかったら,俺が部活が終わるのを待っててくれないかな,と思って。まだ病み上がりだからリハビリも兼ねて少し体を動かすくらいの運動をして,病院に行こうと思うんだ。だからたぶんそんなに時間はかからないから,もしさんさえよければ,今日も一緒に帰れたらなって思ってるんだけど」
「あ,はい,もちろん,私なんかでよかったら!喜んで待ってます」
「そうか,ありがとう。じゃあ,俺は教室に戻るね」
「は,はい!」


今日も幸村先輩と一緒に帰れる!という喜びと,幸村先輩の笑顔と,周りからのものすごい威圧感で顔が真っ赤になってしまい,この顔で教室帰るの嫌だなあ,トイレにでも行って冷やしてこようかな,と考えていると,幸村先輩の姿が見えなくなったあたりで,同じクラスの女子たちがわらわらと集まってきた。


さん!!見たよ,すごいじゃん!!幸村先輩と付き合ってるの?!」
「最近噂になってるよ!さんと幸村先輩が一緒に帰ってるって!」


驚いた。私は本当にそんなつもりはなくて,あの1番辛いときに支えてくれた幸村先輩の優しさにただただ甘えていたのだけれど,確かに傍から見ていたら,毎日一緒に帰ったり,あんな会話をしていたりと,付き合ってるようにみられても仕方ないところも節々あった。


「ち,違うよ!全然そんなんじゃないよ!!」
「そうなの?」
「うん。本当に全然そんなんじゃなくって,たぶん私が落ち込んでるから,元気づけようとしてくれてるだけだよ」
「そうなんだー。でもさん,羨ましいなー!切原くんと仲良くて,幸村先輩に元気づけられてるって!」


赤也の名前が出てきて,胸がちくりと痛んだ。


「ほんと,めっちゃうらやましい!」
「そんなことないよ。ちょっとトイレ行ってくるね」


傷ついた心を隠すように,私は逃げた。





さん」


誰もいない図書室で課題をやっていると,優しい優しい声が聞こえてきた。


「幸村先輩っ」


私はとたんに笑顔になって,幸村先輩の方へ駆けていった。すると,「図書室で走ったらだめだよ」,と笑顔で注意されてしまった。慌ててブレーキをかけ,すみません!と頭を下げると,近づいてきた幸村先輩に頭を撫でられて「ふふ。でも可愛いから,許してあげるよ」と笑顔で言われた。


「か,か‥!!!」


ふと見上げると幸村先輩の笑顔がすぐ目の前にあって,頭には幸村先輩の手の温もりが伝わってきて,顔が真っ赤になって,少し泣きそうになった。涙目で幸村先輩を見つめると,少し困ったように顔をゆがめた。


「何か変なこと,言ったかい?」
「い,いや,可愛いとか,誰にも言われたことないから,びっくりしちゃって‥。私,可愛くないです!」


幸村先輩は頭を撫でながら(心臓が止まらない‥!),にっこり笑った。


「何を言ってるんだい,さんはすごく可愛いよ。本当はもっと言ってあげたいけど,さんを泣かせたくはないから,今はやめておこうかな。それじゃあ,帰ろうか。今日も家まで送らせてね」
「はい!」


急いで鞄を取って,幸村先輩の隣に立った。校内で一緒に歩くのは初めてなのでとても緊張してかちこちになってしまい,恥ずかしくて幸村先輩の少し後ろを歩いていたら幸村先輩は歩くのを止めて私を待ってくれた。そしてさりげなく私の歩調に合わせて歩いてくれた。幸村先輩に気を遣わせたくなくて,私が一生懸命ついていこうとすると,


「そんなに急がなくていいよ。ゆっくり歩いて。ゆっくりの方が,長い時間一緒にいられるから」


胸が,高鳴った。




幸村先輩と帰りながらたくさんのことをお話しするのは本当に楽しくて,初め緊張して何も話せなかったのが嘘のようだった。今は緊張こそしていても,心から楽しんでいた。心から笑えていた。


「あはは!」


思いがけず声を上げて笑ってしまっていたようで,幸村先輩が私を見つめるその優しい視線でドキッとした。


「ああ,ごめんね。最近,さんが楽しそうにしてくれているから,うれしかったんだ」


いつも心配して私を気遣ってくれる幸村先輩にいつも申し訳ないと思っていたから,安心させることができてとてもうれしかった。


「あ,いや,全部,幸村先輩のおかげです!本当に,ご迷惑ばかりおかけして‥」
さん,そういうときは,すみません,より,ありがとうの方がいいと思うよ」
「す,すみません!」
「ほら,また言ってるよ」
「あ,いや,す‥じゃなくって,ありがとうございます!」
「ふふ。まあ,俺はそんな真面目で気配り屋さんなさんが,好きなんだけどね」


好き,に他意がないのはわかっているけれど,その言葉がうれしくて顔が真っ赤になってしまった。そんな私を優しげな視線で見る幸村先輩に,私はずっと気になっていたことを口に出してみた。


「あ,のっ‥」


「何だい?」と微笑む幸村先輩に対して,失礼なことを聞いているような気がして,まっすぐ目を見ることができなかった。


「私,何にも取り柄がなくて,ドジばっかり踏むし,人見知りだし,その,何でこんな私なんかに,幸村先輩がかまってくれるのかな,って‥」


怒らせたんじゃないかと不安で幸村先輩を見ると,まだ微笑みを絶やしてはいなかった。幸村先輩が歩くのをやめて,私へ向いた。


「理由は,ふたつ,かな。1つめはね,たぶんさんは驚くと思うんだけど,――俺と君が,似ていると思ったんだよね」


それは思いがけない言葉で,よく意味はわからなかった。幸村先輩は切なげな瞳で,「ちょっと,そこの公園にでも,寄って行こうか」と私の肩を抱き寄せた。


公園のベンチに座ると,幸村先輩は私を落ち着かせるように笑顔を向けてきた。先ほどより落ち着いた私は,幸村先輩に疑問を投げかけた。


「私と幸村先輩は,全然,天と地ほど,というか天と地より違いますよ!幸村先輩は,かっこよくて,頭もよくてスポーツ万能で,優しくて,最高の人で,私なんかもう幸村先輩と比べたら虫けら以下ですよ!」


幸村先輩は私の言葉に困ったように笑った。


さんにそう言ってもらえるのはうれしいけど,俺はそんな完ぺきな人間でもないし,さんは虫けらなんかじゃないよ。俺とさんは,同じ中学生だよ」


とはいっても,幸村先輩の貫録は間違いなく普通の中学生ではありえないものである(というか,テニス部レギュラーの人たちは,みんな年相応らしからぬ人たちばかりだ。正直赤也がかなり浮いて見える)。このようなことを私が考えていると,幸村先輩は遠くを見ながら,話を始めた。横顔がすごくかっこいいと,胸がどきりと高鳴った。


「初めはね,見ると必ずいつも笑顔のさんのことを,ああ,明るい可愛い子だなって思っていたんだ」


きっと,いつも赤也と笑い合っていた,あの1番楽しかった頃のことだ。


さんの心からのまぶしい笑顔に,元気づけられていたんだ。ほら,俺,たぶんよく笑っているだろう?いつの間に身についたのかわからないけど,どんなときでも笑顔で過ごしてしまうんだ。たとえ辛くても,たとえ悲しくても。特に病気で倒れてしまったときは,その笑顔でさえも乗り切れない瞬間もあった。そんなとき,思い浮かぶのは,いつも君の笑顔だった。もう一度,さんの笑顔を見たい。俺もあんなふうに,また,心から笑いたい。症状が重い時も,リハビリがきついときも,俺はその思いだけで乗り切れたんだ。だから君は俺に感謝してくれているけど,むしろ俺の方こそ君に対して心から感謝しているんだ。本当に,ありがとう,さん」


驚いた。幸村先輩の目に私がそんなに止まっていたこともだけど,私がそんなふうに幸村先輩を元気づけていたなんて,思いもしなかった。信じがたいことではあるけど,幸村先輩のまっすぐな瞳を見て,そんなふうに思うはずもなかった。


「そして俺は病気を乗り越えることができた。病気になって,健康に生きるということがどれほど幸せなことなのかをよく理解することができた。そして俺は思ったんだ,健やかに生きているうちに,心から自分のしたいと思えることを思い切りやりたい,と。そして俺が1番最初に心からやりたい,と思ったことが」


幸村先輩が,ゆっくりこちらを向く。幸村先輩が,少し息を吐いて,吸って,


「君に会うことだったんだ」


風がさらっと吹いて,私の髪がばたばたと暴れる。幸村先輩の髪は,幸村先輩自身のように,つつましく揺れた。


「とはいっても,俺は君の連絡先を知らないし,病気を乗り越えたといっても,すぐに学校に完全復帰,ともいかなかったんだよね。どうしたら会えるだろうかと考えていたところで,君を見つけたんだ。あの日は,担任の先生に用があって,少しだけ登校していたんだけど,すごい偶然だったから,驚いたよ。けれど,うれしくて声をかけようとしたら,急に雨が強く降ってきて,急いで傘を差しに行こうとしたら,君がふらついていて。急いで駆け寄った。驚いたよ,急に倒れるから。でも,俺がそこにたまたま居合わせたのも,すべて運命だと思った。そして,久しぶりに会った君は,笑顔こそ浮かべていても,笑っていなかった。あのときの俺のように心からの笑顔を見せてくれなくなっていた。そして俺はこう思った,さんの笑顔を,守っていきたい,と」


幸村先輩のお話はなんだか現実に起こっていることだとは思えなかったけれど,信じられないけれど,でも,幸村先輩の気持ちはしっかり伝わった。「それでね」,幸村先輩が話を続けた。


「本当は,言わない方がいいのかもしれないけど,言わせてもらうね。俺,さんが何でそんなに悲しんでいるのかを知ってるんだ」


幸村先輩は悲しげに笑っていた。


「赤也のことだよね?」
「え,っと‥」
「俺,ずるいやつだと思われるかもしれないし,自分でもそう思って嫌になるけど,でも,今言っておかないと,きっと後悔すると思うんだ」


急に幸村先輩が私の両肩をつかんできた。びっくりして幸村先輩を見ると,幸村先輩の目は,とても真剣な色をしていた。


「俺なら,絶対に,君を泣かせたりなんかしない。君を一生笑顔にしてあげると,約束するよ。あんな,君をあれほどに泣かせても気づかずにへらへらしているやつなんかに,君を渡したくない。――ここで2つめの理由だ。俺は,」


その先の言葉は,すぐには紡がれなかった。なんだかあったかいな,と一瞬思った。幸村先輩に,抱き寄せられていた。強く抱きしめられた。視界から幸村先輩が消えた。私はただ大きく目を見開くばかりで,心臓が病気なんじゃないかと疑うくらい,どんどんどんどん早くなっていった。幸村先輩が今どんな顔をしているかはわからなかったけれど,かすかに聞こえる幸村先輩の鼓動も早かった。視界に入ってきた砂場も,ブランコも,目に留まらなかった。どれくらいのあいだ,こうしていたのかわからない。一瞬だったかもしれないけれど,永遠のように感じた。
そして,幸村先輩は,はっきりと言った。


「君が,好きだ」


幸村先輩の私を抱きしめる力がより一層強くなった。


「‥こ,」
「後輩として,なんかじゃないよ。さんを一人の女の子として見ている。一人の女の子として,君が好きだ。だから,俺のことを,一人の男として見てほしい。俺は一人の男として,君を守っていきたい。君と,君の笑顔を守りたい」


今までの私なら,他意はないのだろう,と思っていた。今でも,こんな私を,幸村先輩が,そんなはず,と思う。けれど,きっと今の幸村先輩の言葉も,気持ちも,この温もりも,鼓動も,きっと,きっと,まぎれもなく,真実だ。幸村先輩はそっと腕の力を緩めた。


「今は突然で驚いていると思う。さんの赤也への気持ちもわかっているつもりだから,すぐに答えを,とは言わない。けど,これから俺と接していく中で,少しでも楽しく,うれしく,幸せに感じてくれたら,俺のことも男なんだと,意識してほしい」


顔があまりにも近く,ほとんどキス,しそうな距離で,私は目をつぶっていたのだけれど,ふふ,幸村先輩が笑う声が聞こえてきて,幸村先輩は私の頭を撫でて立ち上がった。


「さて,もうすっかり暗くなっちゃったね。時間を取らせて,申し訳なかった。しっかりと家まで送り届けるよ。じゃあ,帰ろうか」


幸村先輩が差し出してきた手を取ると,私を立ち上がらせてくれた。幸村先輩をそのあとも手を放そうとはしなかったので,そのまま私は家に送ってもらった。


気付かなかった,今まで。私のすべては赤也だと思っていたけれど,違ったんだ。こんなにも私を見てくれている人が,いたんだ。


私はきっと,誓える。今,心から幸せだと。幸村先輩と,真剣に向き合いたい,と。








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