瞼のあまりの重たさに少し焦って無理やり目を開いたら,視界中が真っ白だった。それが天井だってことはすぐに理解できたのに,ここはどこなんだろうとか,どうしてここにいるんだろうとか,私何やってたんだっけとか,肝心なことはぜんぜん分からなかった。 まわりを見ようと思って身体をみじろぎしようとしても,あまりのだるさに動かなくて,目を動かせる範囲で見渡してみたら,カーテンで仕切られてはいたけれど,何となく見覚えのある風景だった。ここはたぶん保健室だ。そこではっと気づく。保健室‥?そこからはどんどん記憶が頭に戻ってきた。 そっか,私‥!赤也と小原さんのキ‥は置いといて,それで帰ってたら何か涙がこぼれて止まらなくなって,それからえっと‥。その先の記憶がなかったのだけれど,これだけは耳に残ってた。 「おい,大丈夫かい?!」 そこでもしかして私何か体調悪くなったりして,あの声の人が保健室に連れてきてくれたのかも!って思って起き上がろうとしたんだけど, 「‥っ痛っ‥」 右腕の痛みに思わず声をあげた。別に大したことはなかったんだけれども(あとで気付いたことなのだけれど,どうやら倒れたときに地面にぶつけたらしい)。すると何やら近づいてくる気配を感じ,そのあとカーテンがしゃっ,と開いた。 「おはよう。目は覚めた?」 現れた人物にかなり驚いたが,同時にほっとした。どうりで,聞き覚えのあるような,優しい声だと思った。 「幸村先輩‥」 「俺のこと,覚えててくれたんだ。よかった,うれしいな」 幸村先輩のことを忘れるはずがあるわけがない,というか,間違いなくそれはこちらの台詞である。おそらく全国一であろうそのテニスの実力,あの個性派ぞろいのテニス部をまとめあげる統率力,成績優秀で端麗な容姿,柔らかな物腰,優しい声,本当にこの世のすべてを持っているような幸村先輩,片や超一般人の私。 赤也に一緒に帰ったりとか用があってテニスコートに行ったときにちょっとお話ししたことがあるくらいで,そうじゃなきゃたぶん学校生活で関わる機会なんて皆無だっただろう。こんな私にそんな優しい物言いをしてくれる幸村先輩の優しさに,心底感動した。こりゃモテないはずがないと思った。本気で学校中の女子全員が好きなんじゃないか,っていうくらいモテモテの幸村先輩とふたりきりで保健室にいることが,ファンの子にすごく悪いことをしているような気がした。 「い,いえ,先輩のことを忘れるはずがないです!むしろ私が覚えてくださっててうれしいです」 「そうかい?うれしいな。ありがとう」 「いえ,こちらこそありがとうございます」 そう言ってほほ笑む幸村先輩の笑顔の美しさにドキドキしながら,この人は本当に私や赤也と1つしか違わないのだろうか。人間が違うな,なんてばからしいことを考えていた。もしかしたら,混乱してちょっとテンションがおかしくなっているのかもしれない。 「久しぶりだね,さん」 「は,はい」 確かに,たぶんかなり久しぶりだったはずだ。それまでかなりの頻度でテニス部の部室やテニスコートのまわりをうろうろしていたから,もしそんな私が幸村先輩の目に止まっていたなら見かけていただろうが,赤也が小原さんと付き合い始めてからは,私は全くテニス部の方には立ち寄らなくなったからだ。 「驚いたんだよ,久しぶりにさんを見かけたから,うれしくて話しかけようとしたら,急にさんが動かなくなって,そのまま倒れてしまって‥。急いで保健室に運んだんだけど,とても顔色が悪かったし,ずぶ濡れになっていたのもあって,心配したよ」 「本当にすみません,ご迷惑おかけして‥」 本当にこのときばかりは,他人に,しかもこんなに優しい幸村先輩に迷惑をかけてしまったことに対してとても反省した。もっとしっかりしなきゃいけない。私が鬱になるのは勝手だけど,周りの人に迷惑かけるのはよくないことだ。早く立ち直って,普通に過ごさなきゃ。みんなみたいに,普通に。――私にとってのみんなみたいな“普通”には全部赤也がいて,赤也がいない“普通”が,わからないのだけど。 「ふふ,さんは何も悪くないから謝る必要はないよ。とにかく,話もできるみたいだし,本当によかった。もう少しだけ寝ていなよ,そしたら俺が送って行くから」 ゆ,幸村先輩に送ってもらう?!本当に気持ちはありがたかったのだけれど,申し訳なさすぎて,そんなことお願いできるわけがなかった。 「いや,本当に悪いので,大丈夫ですよ!!一人で帰れます」 「気にしなくてもいいんだよ?俺,さんが心配だから,送っていきたいし」 「本当に平気ですから,ほら!!」 手をぶんぶん振って,元気そうに振舞ってみたら,幸村先輩がとても悲しそうな瞳で私を見つめていた。え,あんまりにも子供っぽかったから,大人な幸村先輩には引かれた‥?なんてことを考えていたら,言いにくそうな様子で,幸村先輩は口を開いた。 「さんは,本当にいつでも笑ってるね」 あまりに予想外のことを言われて,思わず「え‥?」と口に出してしまった。覚えてないだけじゃなかったら,たぶんそんなことを言われるのは幸村先輩が初めてだった。幸村先輩が何が言わんとしているのかがわからなくて,私は何も答えることができなかった。 「俺はさんのそういうところは好きだし,みんなも好きだ,と思うと思う」 誉められているような内容なんだろうけど,幸村先輩の悲しく歪んだ顔を見ているとそんな気にはなれなかったし,たぶん誉められているわけではないんだろう,と思った。幸村先輩は本当に言いにくそうにしていたけど,思い切ったように続けた。 「けどね,‥それは,さんにとって,いいことではないと思うんだ」 その言葉を聞いた瞬間,急に頭ががん,と殴られたような衝撃がして,今までの思い出が走馬灯のように駆け巡った。幸村先輩の言いたいことが何となくわかった。 私,そういえば,ずっと――ずっと笑ってる。もちろん楽しい時も,悲しいときだって,無理して――。 「俺は,笑顔は,楽しいときに見せてほしいよ。辛い時は,涙を流して,辛いって叫んでほしい。無理をしないでほしい。誰も頼れないんだったら,俺を頼ってほしい」 なんで私なんかに幸村先輩がそんなに優しくしてくれるのかは全く分からなかったけど,その言葉が今まで生きてきた中で1番といっても過言ではないくらいうれしくて,その嬉しさや感謝の気持ちを言葉にすることができなかった代わりに,涙が一筋こぼれた。 「やっと,泣いてくれたね」 そういう幸村先輩の微笑みを見て,一筋,また一筋涙がこぼれた。誰にも言えなかった,誰もわかってくれなかった。赤也も小原さんもみんなの人気者,そんな2人が付き合って,誰が嫌だなんて思う?2人はあっという間に学校公認のカップルとなり,今まで私がいたはずの居場所なんて一気に排除された。けれどどんなに辛くたって,悲しくたって,私は何にも気にしてないよって,“幼馴染として”大好きな赤也が,幸せになってうれしい!ってにこにこしてなくちゃいけない。だって私は彼女なんかじゃなくて,ただの幼馴染だから。そうすれば全部丸く収まるって――たぶん無意識のうちにそう思って,たぶん無意識のうちにそうしていた。 けど私の心にも身体にも限界があって,楽しいときは笑って,辛いときには泣かないと,いつか壊れてしまうんだろう。今回はたぶん,それを教えるための前兆だったんだろう,けれど幸村先輩に指摘されるまで,私は何にもわかっていなかった。 私自身もわからなかったことなのに,幸村先輩は,大して関わりもない私の気持ちを分かって,心配してくれた。 こんな私のことを心配してくれる人がいて,私が正しいと思って無理してやっていたことを,私のために叱ってくれる人がいることが本当に嬉しくて――。 「‥わ,たしっ‥」 「無理して話さなくていいんだよ。俺は,ずっとここにいるから」 「‥ふっ,く‥」 今までの赤也との思い出とか,赤也と小原さんが付き合うことになったこととか,気にしてないような振りをしていたこととか,私のぎこちない笑顔だとか,幸村先輩に迷惑とか心配ばっかりかけて申し訳なかったこととか,けれどすごい嬉しかったこととか,もういろんな思いで涙が止まらなくなって,珍しくそんな自分に従って泣いた。そんな私の頭を,幸村先輩はずっと撫でてくれていた。その手は赤也とはまた違った男の人の手だったけれど,何だかとっても心地が良かった。 back top next |