先ほどまでの威勢はどこへやら,力いっぱい振り上げられた腕も今は少しも力が入っていないらしく,ただかすかに震えていた。赤也はそんな状態の小原さんでも決してその腕から手を離そうとせず,小原さんから一瞬でも目線を外そうとはしなかった。私はそんな赤也を見て,何で?赤也は小原さんが好きなのに‥大好きな小原さんじゃなくて私をかばってくれるの?と,まだ頭の中で状況を整理することができず,何も言葉を発することができずにただ二人から目を離すことができなかった。けれど心の奥底で久しぶりの,赤也が来てくれたことの,赤也が助けてくれていることへの安堵を強く感じていた。


「‥早く消え失せろよ」


長年一緒に過ごしてきた私でも聞いたこともないほど低く,冷たい声だった。


「今なら見逃してやる。とっととどっか行きやがれ!!」


赤也の叫び声を聞いて周りにいた子たちはお互いに目を見合わせて立ち去ろうとしたけれど,小原さんは叫んだ。


「ちょっと待って!!」


小原さんは涙を目に浮かべて,それはもう可愛らしかった。彼女の本性を知らされ散々恐ろしい思いをした私でさえ,騙されて絆されてしまいそうなほどいじらしかった。


「誤解なの‥!私,赤也が本当に好きだから,ちょっと話を聞きたかっただけで‥本当に誤解なの!」


彼女のうるんだ瞳はまっすぐ赤也を見据えて,涙ながらに縋った。正直こんな様子でさえ見ているのは辛くって,私なんかにかまわなくていいから,とっとと仲直りして,また元の仲良しに戻ればいいのに‥!赤也の反応を見るのが辛くて思わずうつむいてしまった。けれど,赤也の口から発せられた言葉は,やっぱり冷たかった。


「悪ぃけど,話は聞いてたぜ。何だっけな,ええっと,俺はばかで‥」
「え‥!」
「幸村先輩のダシ?だっけか?」


小原さんの顔が見る見るうちに真っ青になっていった。あんな内容,赤也の耳に入れたくなかったので,聞かれていたのかと私が落ち込んでしまった。そしてだんだんと小原さんの顔が醜くなっていくのを,いたたまれないような複雑な気持ちで見ていた。小原さんは口をぱくぱくさせながら必死で赤也に理解してもらおうとしていた。


「ち,違うの!!赤也,この女に騙されてるんだよ!!赤也,私は‥」
はてめーじゃあるまいし俺を騙したりなんかしねーよ!だいたい嘘ついてんのはどっちだよ!俺たちは先週,別れただろ!!」
「え‥?」


もっと状況を理解できなくなった。赤也は小原さんと付き合って,ない‥?どういうことなんだろう。じゃあ小原さんは,何で私にあんなことを‥?赤也のこの言葉を聞いて戸惑ったのは私だけではなかったらしく,周りにいる女の子たちは「え‥?」「どういうこと‥?」と目を見合わせていた。


「だって‥赤也この女に騙されて‥」
「だから騙されてねーっつってんだろ!気付いたんだよ,俺,ばかだったって‥てめーなんか最初っからぜんぜん好きでもなんでもなかったんだって言ってんだろ!!」
「何で?!何でそんなこと言うの?!私は‥」
「だから気づいたんだよ!!俺‥」


その時赤也がすっと私を見た。それまで周りの女の子たちと一緒に赤也の言葉が発せられるたびに混乱するしかできなかった私も,赤也の燃えるような熱い瞳とかち合ったら,簡単に吸い寄せられた。


「昔も今も,いつだって,俺にはこいつしかいなかった」
「‥‥‥!!」


その時世界が止まったような気がした。少なくとも,私の世界はその瞬間,止まった。呼吸ができなくなって,なぜだかわからないけれど涙があふれてきて,ぽろっと一粒だけこぼれた。全ての景色が消えて,私には赤也しか目に入らなかった。赤也が近づいて来た。私は動くことができなくて,そのまま赤也に抱きしめられた。体育の時間だったせいか,ちょっと汗の匂いが混じった,大好きな赤也の匂いに包まれた。信じられない,そんな――けど,私はどんな赤也だって,自分なりに分かっているつもりだ。赤也の真剣さが強く伝わってきた。これは――。


「そ,そんな‥何で‥やだ,何で‥」


弱弱しいつぶやきとともに,嗚咽が聞こえた。かすかな音と気配で,女の子たちが小原さんを立ち上がらせて連れて帰ったのだろうと思った。赤也はどういう風に思ったのかも,実際にどうだったかもわからないけれど,これは本当の涙なんじゃないかと私は思った。あとに残された私と赤也はただただ何も言わず私はずっと赤也の抱きしめる力の強さを感じていた。ふと,目のあたりが濡れたような感覚がした。無意識に確かめようと身じろぎをすると,赤也は私にそうさせまいと強く抱きしめなおした。赤也の行動がよくわからなくて困っていると,つつっと一筋の道を作って,私のほほを雫が伝っていった。一瞬自分が泣いているのかとも思ったが,さすがに自分が泣いているかどうかくらいわかる。


「ごめん‥」


先ほどまでの怖い赤也はもうどこにもいなかった。やっと聞き取れるほどのかすかな声で,赤也がそうつぶやいたのを聞いて,赤也,泣いてる‥?と気づいた。心配で,ハンカチで涙を拭いてあげようかと思ったけれど,きっと幼馴染の私に泣いてるところなんて見られたくないだろうと思って,赤也を抱きしめ返した。そして赤也の優しい心音を聞きながらゆっくり背中を撫でた。


「俺,ぜんぜんわかんなくってよ‥といるの,楽しくって‥部長がが好きとか,ぜんぜん知らなくって‥部長にとられるかもって焦って‥何でそれで焦るのかもわからなくて,考えても考えてもわかんなくって‥」


少し落ち着いたらしい赤也はすうっと息を吸うと,途切れ途切れに自分の気持ちを話してくれた。赤也もおんなじ気持ちだったんだ。ただそれが嬉しかった。私も,赤也と一緒にいれることがすごく楽しくてうれしくて,その気持ちを定義できずに,友情と恋愛感情の狭間をふわふわ漂っていた。小原さんと赤也が近づいて初めて今の関係に焦って,けれどそれでも自分の気持ちがよく分からなかった。単に赤也をとられるという危機感なのか,赤也に彼女ができたら今までのように一緒にいられなくなるという淋しさなのか,それとも――。赤也の気持ちと自分の気持ちのギャップに,どんどん離れていく私と赤也との距離に,どんどん近づいていく赤也と小原さんの距離に毎日涙が止まらなかったけれど,同じように赤也も,赤也と私の距離に,私と幸村先輩の距離に,悩んでいたんだ。


「けど,もう遅いかもしんねぇけど,俺,今ならわかるぜ。俺が好きなのは今も昔も,これからずっと先も‥お前だけだ」


心臓をぎゅっとわしづかみにされた。大好きな赤也からの,ずっとずっと,求めていた言葉だった。思わず赤也の体操服をぎゅっと握った。すごく嬉しい,でも,確かに嬉しい,けれど――。


「‥って,あ!!わ,悪ぃ!!」


赤也は今まで我を失っていたのか,びっくりして私から離れた。散々強く抱きしめたくせに今さらなんなんだと思ったが,けど赤也はもともとこういう人だなと,変わらない赤也が可笑しくて嬉しかった。くすりと笑うと,「何だよ‥」とすねる赤也がやっぱり私の知ってる赤也で,また小さく笑った。ふと赤也の様子がおかしいことに気づいた。


「え‥っと‥」


どうやら何かを聞きたいらしかった。けど渋っているということは,聞きにくいことなんだろうか‥?気になったのもあり,赤也を気遣って私から聞いてみることにした。


「赤也,どうしたの?何かあったの?」
「え,ええっと,だな,その‥」


赤也は非常に聞きにくそうに,私に小さな声で尋ねてきた。


「お前,やっぱ,部長と付き合ってんの‥?」


どきりとした。自分でも今の私と幸村先輩との関係はなんて定義するのが正しいかわからなかったけど,とりあえずまだ付き合ってはいないんじゃないか,ということは伝えようと思った。


「う,うん,まだ,付き合ってはないんじゃないかな‥?」
「‥そっか。んじゃあ,告白,とかはされた‥?」


なんていったらいいかわからなかったので少し黙っていると,肯定と取られたらしく,赤也は明るく私に笑いかけた。


「やったじゃねぇか!さっさとオッケー出せよ!お前,部長だぞ?他の女に取られたらもったいねーって!」


言葉と同時に叩かれた肩が結構痛かったけれど,赤也の笑顔があんまりにも無理しているように思えて,私は何も言えなかった。赤也はそんな私の様子を察したようで,また真顔に戻ったけれど,今度は淋しそうに微笑んで,遠くを見ながら言った。


「いやまじで,正直と部長とかぜってー嫌だけど,は俺とじゃねーとぜってー嫌だけど‥部長のこと,俺すっげー尊敬してるし,部活中はこえーけど,お前と一緒にいるときは,すっげー優しく笑ってるし‥ま,とにかく部長は絶対お前を幸せにしてくれるからさ,絶対逃がすんじゃねーぞ!」


赤也は私の大好きな赤也の笑顔でにかっと笑って,私の頭をぽんぽんと叩いた。


「んじゃあお前もう今日はあいつらこえーだろうし帰れよ。俺荷物持ってきてやるし,送ってってやっからよ」
「え!何で?!まだ学校だし,いいよ!だいたい授業中だし!」
「っつっても今さら授業戻れねーだろ?教室だって行きにくいだろうしよ」
「うーん‥けど帰るにしろ一人で帰れるから,別に送ってくれなくても大丈夫だって!」
「‥俺のせいでに迷惑かけたし,送って行きてーんだよ。先生には俺が適当に言っとくからさ。ちょっとここで待っててくんね?」


少し悩んだけど,叩かれたところやぶつけられたところは痛いし,顔はぐちゃぐちゃだし,何よりどんな顔をしてあの子たちに会えばいいかわからなかったから,確かに戻りたくないのは事実だったので,赤也の好意に素直に甘えることにした。赤也と一緒に下校するのは久しぶりで,先ほどの会話もあって,お互いに照れくさくてあまり話せなかった。赤也は帰るあいだ(私はずっと自分で持つと言っていたのに)荷物をずっと持ってくれて,ちゃんとドアの前まで送り届けてくれた。帰る間際,赤也が急に真剣な面持ちになって,口を開いた。


「最後にもう1回だけ言わせてくれ。‥俺,が,好きだ」


気の利いたことの一つも言えない私に,赤也はやっぱりいつものようににかっと笑いかけた。


「じゃあ,さっさと部長に返事すんだぞ!部長の好みのタイプとか,なんか相談あったら俺が乗ってやるからさ!いつでも言えよ!じゃあな!」


赤也は笑顔のまま,走って行った(たぶんまた学校に帰ったんだろう)。私はゆっくり自室に戻って,とりあえずベッドに横たわることにした。


横になって,眠りにつこうとしたけれど,まだ感情が昂ったままで眠気を感じなかったので,ゆっくり深呼吸して,今日あったこと,今まで起こったこと,赤也とのこと,幸村先輩とのことについてじっくり考えることにした。


ずっと赤也が好きだった。私の世界の中心は,ずっとずっと赤也だった。赤也が小原さんと付き合うようになって,私と赤也の距離はだんだん離れて行ってしまった。まだ私たちはたかだか中学生,私も赤也もまだまだ子供で幼稚だった。そんな中,幸村先輩に会った。幸村先輩は私たちと一歳しか変わらないとは思えないほど大人で,何よりも私のことを思いやってくれた。赤也と一緒に過ごした時間が長すぎて,思い出が多すぎて,赤也しか見えなかった私には,まだ自分がどれほど幸村先輩を好きなのかはわからない,けど,幸村先輩の優しさが本当に嬉しくて,そんな幸村先輩の気持ちに真摯に応えていきたいと思った。


その矢先,赤也に,気持ちを打ち明けられた。小原さんたちから私を守ってくれた。そして――信じられなかったけど,まっすぐ私の目を見て,「昔も今も,これからずっと先も,好き」,そんなシンプルな,でもすごくすごくうれしい言葉をくれた。なのに。その気持ちが本当なら,すごく辛いはずなのに――赤也は私と幸村先輩のことを,笑顔で応援してくれた。好きな人と他の人との幸せを願うなんて,あの頃の私には,とうていできないことだった。赤也はきっと私が赤也をずっと好きだったことなんて知らない。このまま幸村先輩と付き合うのが,自然な流れで,幸せになれるに違いない。けど赤也も成長していると強く感じた。そしてそれはたぶん私も同じだ。もう私も赤也も子供じゃない。私は,赤也の後ろをひたすらついていっていたあの頃の私ではないんだ。私は誠意を持って,あの二人の真摯な気持ちに向き合わなくちゃいけない。自分の心に,自分の本当の気持ちについて,真剣に問いかけなければいけない。ここで選択から逃げてしまうのは,二人の気持ちに背くことになってしまう。これはどちらかを選ぶということではなく,二人と向き合うということだ。


赤也とは本当にたくさんの時間を過ごしてきた。その中で,赤也にはたくさん幸せな時間をもらってきた。たくさん助けてもらった。けどその赤也を失ったような気がしてひとりぼっちでただ泣いているだけの私に優しさをくれたのは,幸村先輩だった。二人にはたくさん助けてもらった。幸せな時間をたくさんもらった。今度は私がお返しをする番だ。時間をかかっても,私は二人を,二人の気持ちを大切にしていきたいと心に決めた。そこでやっと今日の疲れがどっと襲ってきて,気付けば眠りについていた。


そして私は――



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