初めての出会いから,しばらくは私たちはあくまでいいお友達という間柄で,付き合い始めるまでには二年ほど時間がかかった。 何故かというと,私が,“黄瀬くんが私なんかを相手にするわけがない”,と完全に恋愛をする対象として見ていなかったからだ。 今となっては思い返せば黄瀬くんはそれとなく私にアプローチをかけていてくれた気がしないでもないが, 「黄瀬くーん,私みたいな女の子でも,いつか素敵な彼氏とかできるのかなー‥」 「何言ってんスか!ちゃんなら今すぐでもできるじゃないっスか!ほら!例えば俺とか!!」 私は本当に黄瀬くんの性格や雰囲気から,冗談としか受け取っていなかったのだ。 何度かどこかに二人で遊びに行こうともそれとなく誘われていた気がするが,それすらもこれほど女の子から言い寄られてデートも回数をこなしている黄瀬くんが, 私なんかと二人で遊びに行きたいはずがないと,「またまたぁ」なんてそれとなくすり抜けていた。 結局,初めて二人でどこかに行ったのは,確か黄瀬くんと初めて出会った年のクリスマスイブだった。 記憶が多少おぼろげなのは,元々黄瀬くんと二人でどこかに行こうと決めてそうしたわけではなく, 黄瀬くんに誘われた,男女10人くらいのおしゃれなお店でのクリスマスパーティーが当日急に中止になり,仕方なく二人で過ごすことになったといういきさつがあったからだ。 “ちゃん!幹事の子に不幸ごとがあったらしくて,来れなくなったせいでパーティー自体がお流れになったらしいっスよ!” 黄瀬くんからのメッセージを届いてすぐに確認した私は,もう家からも出ていたためメイクも洋服もせっかく決めたのに残念だったな,とかなり落ち込んだ。 とぼとぼと駅までの道を引き返し歩いていると,黄瀬くんから今度は電話があった。 「ちゃん!パーティー残念だったね。今どこ?」 お店の最寄駅だよ,と答えようとしたけれど,黄瀬くんの声が電話越しというより,随分近くではっきりと聞こえた気がして不思議に思っていると, 「え,ちゃん??」 今度は電話越しにはほとんど聞こえず,真後ろから思い切り黄瀬くんの声がしたので,驚いて振り返ると,すぐそばにスマホ片手にきょとん,とした顔でこちらを見つめる黄瀬くんがいた。 黄瀬くんは少し驚いた様子だったがすぐにぱあっと顔が明るくなり,笑顔でずい,と私に近寄ってきた。 「ちゃん!」 「黄瀬くん!すごい偶然だね!電話出たばっかりだったのに」 「今ちょうどお店の近くにいるんなら会おうよって誘おうと思ってたところだったんっスよ!パーティーなくなっちゃったのは残念だけど,せっかくのクリスマスイブだし,このまま帰るだけなんてもったいないから,どっか行こうよ!」 もう今にも私の手を取ってどこかに連れて行こうとしている黄瀬くんを全力で止めた。 「いやいやいや,みんなとだから行こうと思ってただけで,黄瀬くんと二人なんてまずいって!ファンの子が悲しむよ!」 「俺のファンの子は,みんないい子たちっスから,俺が女の子とデートして悲しむわけないじゃないっスか」 「何より黄瀬くんの彼女に勘違いされたら困るじゃん!!」 「何言ってんスか?俺彼女とかいねーっスよ,いたらクリスマスイブにみんなでクリスマスパーティーなんかしないっしょ。ね!ほら,なーんにも問題なし!じゃ,行こ!」 全ての邪気を吹っ飛ばしそうな明るい笑顔の黄瀬くんのお誘いを断れるはずもなく,私はその日黄瀬くんとご飯を食べたりイルミネーションを見たりして過ごした。 私は男の子と二人でどこかに行くなんて経験自体が初めてで恥ずかしいやら照れくさいやらだったが,黄瀬くんは最初から最後までさりげなくエスコートしてくれて, 黄瀬くんの経験則に基づいたものであろう気配りに,ドキドキしたというよりは,とにかくこんな男の子が存在するのか‥!と素直に感心した。 大学のキャンパスで,黄瀬くんを見るなり,「キャー!!黄瀬くんがいるー!!本当に王子様みたーい!!」とキャピキャピはしゃぐ女の子を見かけたことがあったが, あの時はなんてミーハーな,くらいにしか思っていなかった私も,今ではあの女の子の気持ちを理解できる。本当に黄瀬くんは,頭のてっぺんからつま先まで, すべて王子様要素で構成されているのだ,と。 この時私にとっての黄瀬くんが,雲の上の存在,テレビの中の芸能人といった具合に位置づけされてしまったせいで,逆にそれまで以上に恋愛対象から遠のいてしまった。 「あのね,黄瀬くんっ」 「なーに,どーしたんっスか,やけに嬉しそうっスね,ちゃん」 「あのね,実は,初めての彼氏ができました!!」 そんな私と黄瀬くんの関係が変わったのは,二度目に訪れた私の恋の予感が再び音を立てて崩れ落ちた,その瞬間だった。 「さん!よかったら僕と付き合ってください!」 人生で初めての告白だった。好きだと言われたことへの喜びから,完全に舞い上がって浮かれていた私は, 大して知りもしない人だったのにあまり深く考えないままオーケーしてしまい,すぐに黄瀬くんに報告した。 「うわー!!よかったじゃないっスか!!おめでとうっス!!何か相談とかあったらいつでも乗るからね」 黄瀬くんは満開の笑顔で,本当に自分のことのように喜んでくれた。 初めての彼氏に初めてのデート,何もかもが新鮮で幸せの絶頂期だった私の恋は,私の20歳の誕生日に,あっけなく終わりを告げた。 「‥お前,最低な女だったんだな。今日でお前とは終わりだ,さよなら」 何が起こったのかもわからないほど一瞬の出来事で,驚きと悲しみで不思議と涙すらこぼれてこなかった。 まだ自分自身の中で,起こったことを受け入れることができていなかったんだろうと思う。 私の何が最低だったのか,理由も何もわからないまま,初めて恋人と過ごすことになるはずだった楽しみで仕方なかったはずの誕生日が,私の20年の人生史上最低な一日となった。 そんな時だった,最高にグッドタイミング,もしくは最悪なほどのバッドタイミングで,電話が鳴った。表示を見た,“黄瀬涼太”と記されていた。 あまりの衝撃に言葉を発することすらできなかったため,電話に出ることを躊躇った。 けれどやっぱり私は黄瀬くんの優しさに縋りたくて,通話ボタンを押した。 「ちゃん!お疲れ!もうデートは終わったんっスか?」 底抜けに明るい黄瀬くんの声。何か声を発そうとしたが失敗に終わり,ただ茫然と無言を貫いていると,黄瀬くんも何か察したのか,先ほどよりずいぶん低めの声で,私にささやいた。 「迎えに行くよ,ちゃん」 その後のことは,実際あまり記憶にないのだけれど,私は自分がいる場所だけは,声を振り絞ってかつかつ伝えることができたのだろう。 迎えに来てくれた黄瀬くんの顔を見ると,安心したのかそれまで溢れることすらなかった涙がぼろぼろとこぼれ,泣き崩れた。 黄瀬くんは私の頭を優しく撫でてくれ,私が落ち着いてから連れて行ってくれたのはおしゃれなバーで, 黄瀬くんが注文してくれた初めて飲むお酒は,ジュースのように甘くて口当たりがよかった。 それほどの量を摂取したわけでもなさそうだったが,私はすっかり酔ってしまい,ただひたすら,黄瀬くんに涙ながらに苦しい心情を語り尽くしたようだった。 黄瀬くんは文句の一つも言わずに,私の愚痴に徹底的に付き合ってくれたらしかった。 「全然気にすることないっスよ,ちゃん!ちゃんが最低だなんて何を根拠にそんなこと言ってんっスか,そいつ。大体俺,ちゃんと釣り合ってないなって思ってたんっスよ。ぶっちゃけイケメンでもないくせに,可愛いちゃんの彼氏とか,百年早いっスわ」 「黄瀬くん,私の彼氏,見たことあったの??」 「学食とかで,一緒にご飯とか食べてたじゃないっスか,そん時に。大体俺,ずっと思ってたんっスよね,ちゃんに割り勘させるとか,そんな男,ちゃんの彼氏に相応しくない!って」 珍しく眠い。人前で,しかも私を思ってこんなに懇々と話を聞かせてくれている人の前で今にも寝てしまいそうになるなんて,私らしくもない。 と思いつつも,私の意識がお酒のせいか,どんどん遠のいていく。 その時はどうしてなのか,どうしてそんなことを知っているのなんて微塵も疑うことなく,ただただ襲ってきた睡魔に,素直に従った。 「ちゃん,眠いの?送って行こうか?」 私の意識と比例するように黄瀬くんの声が少しずつ遠くなっていき,やがてぱったりと途絶えた。 次の日の朝のことからは,恥ずかしながらかなりよく覚えている。 少しずつはっきりとしていく意識,柔らかなお布団の感触と,コーヒーのいい香りの中,私はうっすらと目を開けた。 ぼんやりとした視界に写る,白が基調とされた清潔感のある部屋。見覚えのない景色。私はそこで驚きの中はっきりと目を覚ました,私はベッドの上で寝ていたようだった。 え,ここどこ,何‥?!私は昨日いったい何をやらかして,こんなところで寝てるの‥?! 順々に整理していこう,そう,昨日は,私の誕生日に,彼氏に,――ううん,もう元カレになるのかな,元カレに素気無く振られて,どん底の中かかってきた黄瀬くんからの電話を取った。 黄瀬くんが迎えに来てくれて,私は慣れないお酒を飲んで,べろんべろんに酔って,眠たくなって,それから,それから――記憶がない!! 真っ青になった。その後の記憶がない。めちゃめちゃに後悔に苛まれる中,私の物音を感じ取ったのか,隣の部屋から足音が近づいてきて,がらっと扉が開いた。 「ちゃん,おはようっス!具合はどうっスか?」 朝から眩しいばかりの黄瀬くんの笑顔だった。朝一番から爽やかでかっこいいなあ,なんて一瞬だけ頭をよぎったけれど,次の瞬間には私は色々と理解して,一気に青ざめた。 そうなんだ,私間違いなく,あの後黄瀬くんのお家にお世話になったんだ‥! 一人暮らししてる,みたいな話は聞いたことあったけど‥! いくら肉体的にも精神的にも疲れていたからといって,一人暮らしの年頃の男の人のお家に一晩厄介になるなんて‥! 急いでこっそり布団の中の自分の着衣状態を確認する。うん,服はおそらく昨日のまま,まったく脱いでない。ひとまずほっとした。 まあ,確認なんてしなくとも,女の人にモテモテで選び放題で,紳士的な黄瀬くんが,私なんかと変なことするはずもないけれど。 こんなシーンドラマの中でしか見たことなかったけれど,あのドラマの中の女の子たちは,こんな気持ちで,お布団の中の自分の格好を確認していたのねと,何となく思った。 「具合は,全然大丈夫なんだけど。ほんっとーにごめん!!迷惑かけちゃって,なのに全然記憶にもなくって‥!」 「なーに水臭いこと言ってんスか!俺とちゃんの仲でしょ?俺はちゃんの力になれたってことだけで,本当にうれしいんっス!あ,もちろん指一本すら触れてないんで!安心してね」 にかりと笑う黄瀬くんの笑顔に,私も安堵して,笑みがこぼれる。それからしばらく他愛もない話をした。 黄瀬くんは優しくって明るくって面白くって,私は昨日あった悲しい出来事なんて,いつの間にかすっかり頭から抜け落ちていた。 気付けばもう窓の外は暗くなり始めていて,そろそろ帰らなきゃと,身支度を始めようと立ち上がった私を,黄瀬くんはやんわりと抱きしめた。 身長差のせいで,黄瀬くんの心臓は私の耳元よりずっと上にあるはずなのに,静かな静かな室内で,黄瀬くんの鼓動の音だけが,はっきりと聞こえた。 黄瀬くんの心臓は,どくん,どくんと,すごいスピードで脈打っていた。 ずっと友達だと思っていた黄瀬くんの男らしさに,初めて触れた男の子のたくましさに,私も黄瀬くんと同じようにすごいスピードで心臓が脈打った。 「‥俺さ,」 どれくらいの時間が経っただろう,ちらっと覗いた外の景色は,もうすっかり真っ暗になっていた。 ずっと上方から聞こえてきた黄瀬くんの声は,いつもの明るく元気な黄瀬くんとは全然違って,自信なさげに,震えていた。 「初めて見たときから,ちゃんのこと,すっげー好きで,」 その言葉を聞いて,本当に,とにかく信じられなかった。黄瀬くんの声色で,冗談を言っているようには到底聞こえなかったけれど, 何で黄瀬くんほどのバスケが抜群に上手くてモテモテな立派な男の子が,私みたいな何一つ取り柄のない,ろくに恋愛経験もない女なんかを。 黄瀬くんの気持ち一つ受け止めることのできない器の小さな私だったが,傷ついた心に,じんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。 けれど,もし黄瀬くんが私のことを本当に好きなら,私を好きだと思ってくれている黄瀬くんに恋愛相談なんて,なんて残酷なことをしてしまったのだろうと,心から申し訳なく思った。 そしてそんなひどいことをされてもこんなに優しく包み込んでくれる黄瀬くんは,本当に優しい人なんだなとも思った。 「‥ちゃんは俺のこと,男として,見てくれてないみたいっスけど,俺,これ以上ちゃんが他の男に悲しまされてるところなんて,本当に見たくないっス!‥俺じゃダメっスか?俺なら絶対にちゃんにそんな思いさせない!何よりもちゃんを大切にするから‥!」 こんなに素敵な男の子が,私のことを,これ以上ないくらい,大切に想ってくれている。その響きはあまりに甘くて優しくて,私の鼓動はただ高鳴った。 上手な答えが浮かばないどころか,呼吸すらまともにできない私を見て,黄瀬くんは,「やっぱり,ちゃんは可愛いっスね」と笑顔を向けて,私の頭をわしゃわしゃと撫でた。 その後家まで送ってくれた黄瀬くんは,私のマンションの前に着くとゆっくりと立ち止まって,先ほどまでの向日葵のような笑顔とは打って変わって,真剣なまなざしで私を見つめた。 その瞳の奥の情熱に,私は心を奪われた。 「いきなり気持ち切り替えられるもんでもないのは分かってるっスから,俺,ちゃんがちゃんと俺を一人の男として見てくれて,俺と付き合いたいって思ってくれるの,ずっと待ってるから。だから時間かかってもいいから,ちゃんと俺と向き合って」 「じゃあ,また月曜日,学校でね」,と再び一瞬にして向日葵のような笑顔に戻り手を振る黄瀬くんに,私はこの時きっと,恋に落とされてしまった。 それからは一緒に授業を受ける以外にも二人で色んなところへ出かけたりして,黄瀬くんとの距離が少しずつ縮まっていって,自分の黄瀬くんへの恋心を自覚した時に, ものすごく恥を忍びながら,自分の気持ちを自分の口で伝えた。 「黄瀬くん,あのねっ,‥私,黄瀬くんのことが,好きです」 黄瀬くんは本当に驚いたのか,一瞬呆気にとられたような表情を浮かべて,――すぐにぱあっと顔を明るく輝かせて,私を抱きしめた。 「やったー!!俺も,ちゃんのこと,本当に本当に大好きっスよ!!」 そして二人で指切りげんまんをして,“ずっと一緒!”と誓い合った。 「嘘ついたら針千本飲ーます!冗談抜きでやるっスからね?」 こんなに素敵な黄瀬くんと両思いになれて,私たちはお互いに,ただ笑顔に溢れていた。 こうして私と黄瀬くんが心を通い合わせて晴れて恋人同士となったのは,大学3年生のときだった。 「――嘘,だよね?」 「涼太くん,こんなの嘘だよね,だって涼太くんは,いつだって何よりも私のことを思ってくれて,考えてくれて行動してくれてた, ふと振り返ってみたとき,辛い時にはいつも涼太くんがそばにいてくれた,だから私は,涼太くんの優しいところをどんどん好きになっていったんだよ」, この間私は一息もつかずに涼太くんに問いを投げかけたけれど,それはほとんど悲痛な叫びだった。 「なーに言ってんっスか,っち。嘘なわけないじゃないっスか。俺は初めて見たときから,何よりもっちが好きで,何よりも大切にしたいって思ってるっスよ」 いつもならただ愛と幸福を感じていたその台詞も,今この状況に至っては,ただはぐらかされているようにしか感じなかった。 頭の中では目の前の事実を完全に拒否して受け入れることができていないのに,次々に色々な疑問が浮かび上がってきた, “振り返ってみると,いくら何でも全てのことがタイミングが良すぎないか?どうして傷ついたとき,必ず涼太くんが目の前に現れているのか, そもそも思い返してみれば,私の相談に,特段驚いた様子は見受けられなかったけれど,もしかしたら知っていたのではないか? そういえば,あのクリスマスパーティーは?何でパーティーがお流れになった瞬間に涼太くんとばったり会えるのか? 本当にあんなパーティー存在したのか?”,――数々の偶然が重なりすぎていて,これらは本当に全てただの偶然だったのか。 不安は振り払っても振り払っても消えず,ただ大きくなっていく一方だ。 じゃあ,仮に,これらの偶然が全て偶然だったとして,あの写真の山は,いったい何なのか。もうどうにも言い逃れはできないではないか。 “涼太くんが初めて私を見たとき”というのは,いったいいつなんだろう?もう,何にも,わからない。 「涼太くん,もう,私,わかんないよ。何が本当で何が嘘なのか,もう,何にも,わかんない‥!」 これらの避けようのない事実一つ一つは,とっくの昔に私の大して大きくもないキャパシティをオーバーしていたようで, 恐ろしいという感情も薄くなっていき,自分がだんだん思考不能になっていっていることを感じ取った。 back top next |