「ねーねー大輝ー!この指輪超可愛いー!」


久々に耳にした単語にはっとした。意識がどんどん過去へと遡っていく。気が付けば,俺の左腕に絡みついてくる細腕の先の笑顔が,今声を上げた人物とは似ても似つかないものとなっていた。これが現実なら,そう願わずにはいられなかったけれど,これが現実であるはずがなかった。





「大輝,おかえり」


帰宅すると必ず出迎えてくれる温かい料理と風呂とまりあの笑顔に苛立ちを覚え始めたのはいつのことだっただろうか。付き合って5年,半同棲を始めて3年もたてば,一緒にいるのなんて当たり前で,一寸先は闇なんて言葉よろしく,未来なんて,明日どうなってるかということさえ全くわからないのに,ずっとずっとこの先も,まりあがいると微塵も疑わず,お互いがいることへの有難みなんて微塵も感じなかった。むしろいつもいつも変わらない毎日に飽き飽きしていたくらいだった。


「大輝,今日もご飯,外で食べてきちゃった?」


まりあもそんな俺の空気を何となく感じ取っていたようで,俺と少し距離を置いているようだった。初めの頃からは考えられないほど,俺たちの間には小さな溝ができていた。


「あーわり。食ってきちまった」
「そっか」


そういってまりあは今日も自分の分だけ料理を装って,テレビに向かって食事を始めた。そんなとき一瞬だけ,昔はお互いが何時に帰ろうと必ず二人で小さなテーブルを囲んで,眠たくなるまで笑いながらしょうもない話を永遠と続けた思い出が頭をよぎるが,向けられた背中に何を言うこともなく,俺はシャワーを浴びて,後片付けをしているまりあを見向きもせず,髪も乾かさずに寝た。


目を覚ますと,いつものように隣でまりあがすやすやと眠っていた。やっぱり,可愛いな,とは思うのだけれど,昔なら頬をつねったりして小さないたずらをしてみたり,無性にキスしたくなってしてみたり,たまにむらっときたりもしていたのだが,そんな欲望はなくなっていた。朝っぱらから妙に冷めた気持ちでまりあを見つめていると,寝ぼけながら気づいたのか,まりあも目を覚ました。


「ん‥だい,き‥?」


まりあは毎朝決まって,眠たい目をこすって,ふにゃりと笑って,「おはよ」と言う。今日も眠たそうに眼をこすって,ふにゃりと笑った。口を開いた,その口で――


「別れよっか,大輝」


予想だにしていなかった響きに,驚いたが,ただ,存外,驚かなかった。その時何となく,俺のまりあへの気持ちを察した。小さなしこりはあったものの,思ったよりすっと受け入れることができた。


「‥わかった」


その日俺は,まりあと一緒に2年半過ごしたこの家を,出ていった。


まりあの家に置いていたたくさんの自分の荷物を背負って,久しぶりの我が家に帰ってきた。鍵穴に鍵を差し込んでひねると,がちゃりと音がして,鍵が開いた。ドアを開けると視界に飛び込んできた暗闇のあまりの冷たさに,愕然とした。いつもならまりあがいたから玄関は電気がついていて明るく,まりあの小さな靴がきちんと揃えられていた。進んでいくたびに,自分で電気をつけなければならない。食欲をそそるご飯のいいにおいも,「お帰り」,そういって俺に向けられる笑顔もどこにもない。重たくなった気分を変えようと,シャワーを浴びようと思いバスルームに入ると,いつもなら残っていたはずの,まりあが入ったあとの蒸気や,シャンプーやらボディーソープやらのいい香りは,どこにもなくて,ただ冷たい空気としんと静まり返った空間があるだけだった。まりあと過ごした時間の,思い出のかけらさえ,どこにも転がっていなかった。何だか無性に苛立ってきて,もう今日は寝ようと部屋へ向かうと,笑顔のまりあも,机に向かってレポートに苦戦するまりあも,ゲームの電源を切って落ち込むまりあも,それをめちゃくちゃに笑う俺も,最近の一人で食事をとるまりあの背中も,どこにもない。――ふと目を覚ました。今日はすこぶる寝つきが悪かったけど,やっといつのまにか寝ていたらしい。いつもの癖でふと右を見て,俺の腕の中のどこを探しても,安心したように眠るまりあの姿はどこにもなかった。


「だーいき!今日もよかったあー!」
「‥どーも」


家に帰るとまりあがいなくなったということをまざまざと見せつけられるため,俺は何となく家に帰らなくなっていた。こいつは黄瀬のモデル仲間かなんかで,黄瀬を通じて知り合った女だった。あくまで肉体関係のみが目的なのに,何を勘違いしているのかうるさい女だったが,3つ年上で,まあまあ色気はあって,何より性欲とテクニックが抜群だった。実はまりあと付き合っていた頃から何度か関係を持っていたのだった。まあ,こんな最低な男,まりあもやっぱり嫌だったんだろう。ため息とともに,ふう,とたばこの煙を吐いた。


「この指輪も,すっごいうれしー!」


そう俺がやった指輪を天上にかかげて,満足そうにうっとりと見つめた。たかだか10000円くらいの,愛さえも詰まっていないしょうもない安物だ。前無理矢理連れて行かれた買い物で,俺は女にアクセサリーをプレゼントしてやる趣味なんてこれっぽっちもないのに,このデザインが気に入っただのなんだの買え買えうるさかったので,どうせこれからも(下の方が)お世話になりますからねと,キレそうになりながら買ってやったものだった。事後の俺にとってまとわりついてくるこいつはうっとおしくてしょうがなかったので,適当にすり抜けてシャワーでも浴びてくっか,と立ち上がろうとした。


「大輝ってさ,彼女と別れたんだよね。うれしー!まあ,そりゃ,別れるに決まってるよね,だってあたしが――」


けらけら笑っていた女の顔が一気に真っ青になった。瞬間,瞳が俺に縋るように訴えかけてくる。女のこの身の変わりようの早さにはいつも驚かされるなと,妙に冷静な自分がいた。俺は別に怒りもせず,しらばっくれるこの女に,まりあに何をしたのか問い詰めた。要約すると,「私と大輝はずっと付き合ってるの。何度も肉体関係だって持ったわ。もう大輝はあなたなんかに見向きもしないわ。大輝は私が大好きなの。ほら,見て,この指輪。大輝が私にくれたのよ。本当に嬉しい!だから同棲してるとかそんなのどうでもいいから,潔く身を引いてちょうだい!」,とのことだった。女は先ほどまで露わにしていた醜い感情はどこへやら,「ごめんなさい,許して,あなたが好きだからやったの,あなたのことが本当に好きなの,大輝も私のこと,好きでしょ?だから,私を嫌いになったりしないで」,と涙ながらに縋りついてきた。別に責めることはしなかった。この女の内面の醜さに気づかず,こんな女と浮気を繰り返して,まりあを傷つけたことへの責任はすべて俺にあるからだ。けど,これまでのようにお付き合いできるかというと,それはなかなかに難しいことではないか。その日は適当になだめてホテルを出て別れて,俺は速攻連絡先を消した。


「大輝」


まりあが俺を呼ぶ声が聞こえて,はっと目が覚めた。何故,今頃になって,あんな夢を見たのか。それは間違いなく,後悔と自分への戒めだろう。いつもはわがままを言わないまりあが,付き合ってるあいだ一度だけわがままを言った。二人でぶらぶらしているときに,急に店頭に飾られたペアリングを見て,言ったのだ。「‥すごくきれい」,と。そしてまりあは珍しくアクセサリーの店なんかに入りたがって,俺は柄でもなかったので嫌がったのだが,まりあに引っ張られるようにして店に入った。並べられたたくさんの輝くペアリングを見ながら,まりあはぽつりとつぶやいた。


「‥ね,大輝くん,ペアリング,ほしいな」


どうしてあのとき,たくさんのきれいな指輪の中でひときわ輝くまりあのきらきら輝く瞳に気づいてあげられなかったのだろうか。


「あー?パスパス!いらねえよそんなの,俺ぜってーつけねーぞ,んなもん」
「えー!何で何で?!付けたいよペアリング!愛の証だよ!」
「なにガキみてーなこと言ってやがるんだ。どうせんなもん買っても,お前すぐ飽きてつけなくなるだろ」
「つけるよ!だって大輝くんとお揃いなんだよ?!絶対つけるって!」
「どっちにしろ俺はつけねー。んな女みたいなもんつけてられっか」
「じゃあ,大輝くんに指輪プレゼントしてほしいなあ!」
「何でんなもんいんだよ。俺そんな趣味ねー。指輪とか重てーしよ」
「大輝くん子供!」
「ガキはてめーだろ!ガキに指輪なんか似合わねーよ!」


ふと店員や客からの視線を感じ,確かに指輪のショップでする話じゃなかったなと,いそいそと店を出て,ぽつりとまりあが呟くのが聞こえた。


「‥大輝くんがくれた指輪なら,夜店の100円のだってうれしいのになー」


あの時の俺は,こっそり心の中で“婚約,とか結婚,みたいになったら,あんなの選ばなきゃなんねーのかな‥めんどくせー”と考えただけだった。




「‥大輝?どうしたの?」


はっと我に返った。意識が飛んでしまっていたらしい。我に返ると,やっぱり絡みついてくるこの腕の先にいるのはまりあじゃなくって,俺は小さくため息をついた。今ならあのまりあの言葉を理解できるのだろうか。あのときまりあに指輪の1つでも買ってやったら,未来は違っていたのだろうか。答えなんてどこにも転がっていないから,今はただ,浮気なんて絶対にしない,毎日のまりあの心配りに感謝できるような,指輪を買ってほしいというまりあの願いを喜んで受け入れてくれるような,そんな男と幸せになっていてくれたらいいなと,ただ願っている。







思い出すね5のお題
05.あなたからもらった指輪

2013.8.31(誕生日おめでとう!)


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