雑踏の中,たまたま通りがかった電化製品店の店頭に並んでいた液晶テレビに映った見覚えのある顔が, ふと目に留まってふいに立ち止まった。 聞き覚えのある美しい歌声が辺り一帯に響き渡り,甘く優しい調べに包まれていると,少しずつ俺自身が過去に帰って行く。


国語の教科書なんかに出てくる“心が洗われるような美しい歌声”というのは,このような声のために存在する表現なのだろう。 音楽や芸術なんてからきしの俺も,ふと音楽室の方から聞こえてくる美しい旋律に,心を奪われた。 同時に,顔なんて見なくとも,この歌声の主が誰なのか,容易に推測することができた。 中学バスケ界だけに留まらず高校バスケ界でも有名だった俺たちキセキの世代とはまた別に,帝光中学には,同学年にもう一人有名人がいた。 日本のみならず最近では世界からも注目され始めた,将来有望なソプラノ歌手,。その美しい歌声は,天使の歌声と称された。 彼女はよく休み明けの全校集会などで,何かの賞を取りましたとかで全校生徒の前で表彰はされていたが,実際に歌声を聞くのはこれが初めてだった。 聞いたことのない曲――どうせクラシックだとか俺にとっては子守唄にしか聞こえない類の音楽なのだろうが,眠たくなるどころか生まれて初めてもっと近くで聞きたい,と俺は思った。 吸い寄せられるように,早足で音楽室へと向かった。音楽室の前まで来ると,窓からちらっと覗いた扉の向こうの彼女の生き生きとした表情に,俺は目を奪われた。 歌を歌うということが,本当に好きなのだろうということが,ありありと伝わってきた。 バスケをやってるときの俺も他の人にはこんなふうに写るのだろうかと,ふと考えた。 そしてその向こうに,幸せそうに目を細めて,優しい瞳で見つめる見慣れた赤い髪の少年が見えた。 そういえば,は,赤司と付き合っていたことを思い出した。噂で聞いたこともあったが,練習終わりの赤司を待っていた彼女を見たこともある。 特等席でこの美しい歌声を独り占めしている赤司を,少しうらやましくは思ったが,その場所と俺が取って代わりたいだなんて,そんな大それたことは微塵も思わなかった。 せめてもう少し近くでこの歌を聞いていたい,そう願った。


相変わらず美しい,しかし心惹くほどの切ない音色に,歩みが止まった。あれほど大好きだったバスケに情熱を持てなくなり,全てが灰色に映った俺の世界に,久方ぶりに色が戻った。 やはり今度も顔なんて見なくとも歌声の主が誰なのかは容易に推測することが出来たが,この歌声からは以前の生き生きとした表情を心の中で描くことはできずに, 再び吸い寄せられるように音楽室へと向かうと,窓からちらっと覗いた扉の向こうには,涙を瞳いっぱいに浮かべて,切なさを歌によって必死に訴えかけるがいた。 その向かいには赤い髪の少年の姿は見えず,俺はただのその切なげな表情が気にかかった。


卒業するからといって何が変わるんだ,毎日通う先が違うだけで,どうせバスケを楽しいと思える日なんて永遠に来るはずもない,また鬱屈した日常が待っているのだ。 以上の理由で卒業式もサボってやるつもりだったのだが,なんとなくもう二度との顔を見ることもできないかと思うと,自然と帝光中学へ足が向いた。 進路も何も知らないが,風の噂で海外留学で音楽を学ぶ,とかいう話を聞いた。赤司が京都の洛山に進学することは知っていたので,離れ離れ,ということになるのだろうか。 あの日の涙の理由は,ここにあったのだろうか。くだらない校長の話で心地よい眠りについていた俺は,急にはっと目が覚めた。 曲自体はごくごく普通の卒業の合唱曲だったが,甘く優しい,そして切なく美しい歌声が聞こえてきたからだ。 の独唱に,体育館にいる者全てが聞き惚れた。例に漏れず俺もだった。の歌声に,の表情に,再び心を奪われた。 多くの人からの注目を浴び,皆がを見つめる中,が見つめるのは,ただ一点のみだった。 その見つめる方向に立たされているクラス,そのクラスの人間との彼女の交友関係から鑑みるに,が見つめる先にいるはずの人物とは,ただ一人しか思い当たらなかった。 に心を奪われた人間は数多くいたかと思われるが,が心を奪われた人間は,中学校生活3年間で,赤司ただ一人だったのだろう。


俺がに抱いていた感情とは,何だったのだろうか。 恋とは違う気がする。赤司と付き合っていたことも初めからもちろん知っていた,付き合いたいだなんて考えたこともなかった。愛なんかではもっとないだろう。 かと言ってただの好意でもない。憧れだったのだろうか,それも違う気もする,俺は人に憧れるタマなんかじゃない。 とにかく,柄でもないが,あの美しい声に酔いしれていた。 あの美しい声を特等席で聞かせてもらうことのできる赤司をうらやましく思ったこともあったけれど,あれは嫉妬,だったのだろうか。ただあの清々しいほどに洗練された優しい音色を前に, そんな嫉妬だなんて醜い感情は浮かんでくることはなく,この言い表すことのできない感情を胸の奥にそっとしまい,大して輝かしいとは思えない未来へと,一歩踏み出した。


――以上,さんのソロリサイタルの様子でした!現場からは以上です!


気づくと,もう随分とこの画面の前で立ち尽くしていたようだった。この画面から響き渡る声は確かに美しい。 技術という観点からだけで考えると,間違いなく俺が昔聞いたあの歌声より,磨かれ,洗練されているのだろう。 ただ,初めて聞いたの甘く優しい歌声,生き生きとした表情, 二度目に聞いた美しくも切ない歌声,目に涙をいっぱい浮かべて何かを訴えかけていた表情, そして最後に卒業式で聞いたの,別れへの思いを込めた歌声,赤司を見つめる表情。 プロのの歌声ではない,あの生っぽいの歌声を,もう一度聞ける日は来るのだろうか。 俺は後ろ髪引かれることもなく,歩き出し,雑踏の中に消えた。







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