キーンコーンカーンコーン。
6限終了のチャイムが鳴り,生徒たちはいそいそと帰る準備を始める。
するといつものように,申し訳なさそうな顔をした信史が近づいてきた。

,悪ぃ,俺‥」
「何?」


,悪ぃ,俺,今日部活長引きそうなんだ。先,帰っててくれ』,
お決まりのセリフはもう聞き飽きたから,遮った。


「‥もうすぐ試合でさ,特訓があるんだよ。だから遅くなりそうなんだよ」
「だから?」
「早く帰って勉強でもしてろよ。待たせるのも悪いし」
「いいよ,別に,そんなこと気にしてくれなくても。待ってるから」
「‥先に帰ってろ」
「‥‥‥」


ささやかな抵抗も,あっけなく終わった。


信史と私は付き合って半年くらいになる。
はっきり云って,信史は私のこと,好きじゃないと思う。


今まで告白してきた女の子たちを来るもの拒まずでOKしてきた信史。
なのに,信史から私に告白してくれた。
瀬戸君に聞いたら,信史から告白したのは私が初めてらしい。


嬉しかった。


隣の小学校だった私が名前くらいは耳にするほどそれなりに有名だった信史をそれほどよく知っていたわけではないけれど,
人に好かれるのは悪い感じはしないと思うし,何より信史だったからだ。
かっこよくて,成績はお世辞にもいいとは言えないものの,
頭脳は明晰で,運動神経もいい,世間一般的に言えば"チャラい"と捉えられる身なりも言動も,
彼の魅力を存分に引き出していた。
私は,信史と話していくうちにどんどん好きになっていった。


けれど私たちの関係は,付き合い始めたからといって,特に何も変わらなかった。
週に2,3度一緒に帰って,週に1,2度電話をするだけ。
初めは特に何も思わなかったのだ。もちろん,信史をよく知らないからといって,
信史のプレイボーイっぷりは少しは耳にしていた。
信史と付き合い始めて,それなりに噂が広まっていったとき,仲のいい友達なんかに指摘されたりもした。
けれどまだ中学生なんだからそんなもんだと思っていたし(話すだけでもドキドキしてしまうには,キスやその先なんて考えられなかった),
噂なんかでは,何人もの女の子を遊んでるなんてひどいこといわれてるけど,
実際は女の子を大切にしてくれるいい人だ,くらいに思っていた。


けれどそれは完全な思い違いだったようだ。
私は知ってしまった。デートだって,キスだって,代わりとなる女の人がいたのだ。
今だって部活だとかなんだとか言って,他の女の子と一緒に帰るんだ。
私は自分と信史のあいだにあるギャップにもう耐えられなくなっていた。


――私ばっかり好きになっていって,信史は私なんか見向きもしてくれないんだね――





今頃女の子と仲良く喋りながら家路に着いてるんだろうな,
私はそんなことを考えながら,一人で歩いていた。


ちょうど,曲がり角に差し掛かったところだった。
向こうの方に見覚えのある人物が目に入って,私は咄嗟に鉄柱に身を隠した。
その人物とは無論信史で,隣には,ちょうど信史のタイプの千草さんみたいな,
ちょっときつい感じだけど,すごくきれいな人がいた。


―― 私とは似ても似つかない人 ――


はっきり言って,すごくお似合いだった。
彼女はとても幸せそうに,そして(これは僻みも入っているんだろうが)信史もとても楽しんでいるように見えた。


けれど,ここまでなら(私が知っている限りの)いつもと一緒だったのだ。
問題はこの次の行動だった。
二人は微笑み合い,特に周りを気にする風でもなく,ある建物へ入っていった。


―― え‥‥‥ ――

そういう知識とは無縁だったも,そこが何をするところかくらいはおぼろげながら知っていた。
はただ走った。
今,私は何にも見ていない。それ以前に,何にもなかった。
何にも――。ただ,涙がこぼれるばかりだった。


私は家に着くと,家族に泣いた顔を見られないように部屋へと向かい,
そしてすぐにお風呂に入った。
自分でも何でそんなことをしたのかわからないが,たぶん,見たもの全て洗い流せるとでも思ったのだろう。
お風呂に入りながら,湯船につかっても,体を洗っていても,先ほどの映像が浮かんでくるばかりで,
大好きな歌を歌おうとしても,嗚咽で歌えなかった。
そうして何とかお風呂から出て,母の「ご飯はー?」という問いかけに,
何にも食べたくはないが何も食べないのも怪しまれるので,
あんまりお腹空いてないからもうちょっと待ってとだけ言って,部屋に帰った。


今までじゃ考えられないくらいの涙がこぼれた。自分でも驚くくらいだった。
この涙の意味はたぶん,彼氏の浮気現場を見たこともそうだろうけど,たぶんそれが主ではなかった。


信史にとって,私って何なの?


体目当てじゃないことは分かる。まだ,何にも手を付けられていない(いずれ,なら知らないが)。
金目当てでもない。買ってもらったことはあるけど,ねだられたことは一度もないし,
信史は割と裕福な家のようだからそんなの必要ないだろうし,第一そんな男ではないと思っている。


どういうつもり?
一度,聞いてみたかった。


不思議と大して哀しくなかった。
不思議とその女の子への嫉妬心もなかった。
そこで私は,自分の気持ちに気がついた。
ああ,たった今,私は信史にほとほと呆れたのね,冷めたのね。


でも,――





次の日の昼休み,私は中庭の大きな木の下で寝っ転がって,大きな大きな空を眺めていた。
信史と付き合い始めた頃の私は,初めての彼氏で舞い上がっちゃって舞い上がっちゃって,
大好きなこの場所で三村くんと一緒にお昼ごはんを食べるの!なんて毎日わくわくしていたっけ。
そんなの夢のような話だった。結局私は信史をお昼に誘ったことなんて一度もない。


どうでも良かった。
信史なんて,もう,好きじゃない。


――死ニタイナ――


昨日思ったことを考える。


――本当ニ,死ニタイナ――


ふいに,私の視界を黒い影が覆った。
信史だった。


「よっ,


その整った顔に,いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。
起き上って,教室にでも戻ろうと思ったが――やめた。
信史は私があんなの見ただなんて夢にも思っていないだろうから,
それならもう,好きにさせてやろうと思った。


「昼御飯,一緒に食べようぜ」
「何?今日は誰も一緒に食べてくれなかった?」


能面みたいな無表情,絶対に寄せ付けないような態度,
これが今の私にできるささやかな抵抗だった。


「何言ってんだよ,が寂しいと思ってきてやったんじゃん」


ニヤッと,三村信史特有の笑みを浮かべて,隣に座り込んだ。
この笑顔も,付き合い始めた頃は,ドキッとしたっけ。
けど,今では別に何とも思わなかった。


「別に,来なくてもいいよ」
「おい,どうしたんだよ?すねんなって!」


信史はニッコリ笑って私の頭を撫でようとした。
けれど,私は咄嗟にその手を振り払ってしまった。


「‥触らないで」


信史は本当にただ驚いたというような顔をした。
振り払ったのはほとんど無意識だったが,私は振り払われて当然だと思った。
昨日他の女を愛したばかりの手なんかで,触られたくなんかない。


「じゃあね」
「ちょ,どうしたんだよ!今日のお前,なんか変だぜ,おい――」


私はすっと立ち,その場を離れようとした。
信史が私の手を掴んだが――それも振り払った。


「さようなら」


ただ冷たく,そう言った。
後ろから信史の呼ぶ声がしたが,無視してその場を立ち去った。






信史は何故,私と付き合っているのだろう?


私より可愛い人は,いっぱいいる。
私より綺麗な人だって,いっぱいいる。


もう,信史が何を考えているのか,私にはさっぱりわからなかった。
もう,何もかもが嫌だった。
そして私は,2つのことを決心した。






サン」
「七原くん」


まず1つ目の決心を達成するため,私は七原くんを呼び出した。
かっこよくてスポーツ万能で優しい七原くんとは,
信史と付き合い始めてからよく話すようになり,よい友達になった。
ニッコリ笑って近づいてくる七原くん。
なるほど,七原くんはすごくモテるらしいのだが,わかる。
女は,こういう無防備な笑顔に惚れやすい(と思う)。


「ごめんね,呼び出しちゃって」
サンの頼みなら大喜びだよ。
それより,どうしたんだい?三村は?今日は一緒に帰らないのかい?」


それは,私の一大決心だった。


「ここじゃダメなの。誰もいないところで‥」


そう言って,怪訝そうな表情を浮かべた七原くんを,私は引っ張っていった。
七原くんは,そんな私に,文句も言わず黙ってついてきてくれた。


「どうしたのサン,こんなところまで。結構学校から離れてきたけど」
「あのね‥」


私は七原君を見上げた。七原くんは私の目を見て,はっとした。
たぶん私の目が潤んでいたからだ。
七原くんの少し眠たそうな,けれどきれいな瞳が揺れた。
たぶん私はやけくそだったんだ。もう自分が何を求めているのかもわからなかった。
経験もないのに,私は怖くて,さみしくて,けれどまだ戸惑いながら,震える声で言った。


「私を‥抱いて?」
「え?」


七原くんは本当に混乱しているようだった。
当たり前だ。親友の彼女に呼び出されたかと思ったら,人気のないところへと連れていかれて,
いきなり抱いてだなんて頭おかしいんじゃないかと私でも思うだろう。
けれど私はきっと頭がおかしくなっていたんだと思う。
私はただ,優しい七原くんに信史のことを聞いてほしかっただけだったんだろう。


「どうしたんだい,サン?」


七原くんの声はとても震えていた。


「お願い。お願い‥」


言い終わる頃には私の瞳からはたくさんの涙の粒がこぼれおちていた。
七原くんは本当に困惑していた。
ただことじゃない雰囲気に,断りづらいのだろう。本当に優しい人だと思った。
(申し訳なかったが)


しばらく沈黙が続き,七原くんが重たい口を開いた。


「‥本当にいいのかい?」
「うん‥お願い」






その後私達は,恥を忍びつつ適当なホテルに入って,抱き合った。
七原くんの一挙手一投足全てから七原くんの優しさが伝わってきて,
七原くんの優しさに抱かれながら信史を思いだし,私は涙が止まらなかった。
行為が終わり,後始末も終えた後,私は七原くんに今までのことを全て話した。


――信史は私のことを愛していないと思うんだ――


全て伝え終わる前に私は嗚咽が止まらなくなってしまったけれど,
七原くんは寂しそうな顔をしながら,ずっと私の髪を撫でながら,真剣に話を聞いてくれた。
やっぱり,七原くんで良かったと思った。






そのあとは,家の途中まで七原君に送ってもらった。


「じゃあ,ここまででいいから。今日は本当にありがとう」
「どうして?俺,家まで送っていくよ。そのつもりだったし」
「ううん,もう,本当にすぐそこなんだ。本当にありがとう。じゃあね」
「‥わかったよ。また明日」


にっこり笑って手を振ると,七原くんは少し照れながら笑って,手を振った。


私はいったん家の方向へと足を進め――,
七原君が見ていないことを確認すると,全く別方向に向けて歩き出した。






ここは城岩町で一番高いビル。
私は今その屋上に立っている。



風が吹いて心地よい。
先ほど七原くんにそうしたように,私は風に身を委ねた。
風は私のサラサラの髪に悪戯を繰り返した。
信史が髪がきれいな人が好み,というのを聞いて,
一生懸命伸ばして毎日毎日ケアを欠かさなかった髪だった。


――そろそろ,かな――


私は靴を脱ぎ,きちんと並べて,真っ暗な空を仰いで深呼吸をした。


お父さん,お母さん。
七原君,みんな。


――信史。


今まで‥ありがとう。


そして私は,飛び立った。







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